マノロ・ブラニク(Manolo Blahnik)

 
世界最高峰のレディースシューズブランドの一つ
「マノロ・ブラニク」の創業デザイナーながら、
基本的なプロフィールを知らない日本人が多いと言われるマノロ氏のプロフィールを紹介。
 
 
参考文献
マノロ・ブラニク英語公式サイト
 

生い立ちからヴリーランドとの出会いまで

 
 

今も生きているの?

生存(2021年時点)

生年月日は?

1942年11月27日(公式FACEBOOK情報)

国籍/出身は?

スペイン/カナリア諸島(アフリカ付近)

 
 
マノロ氏の顔写真(丸いメガネが印象的)

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“Alvar Aalto, my idol”

Manolo Blahnik(@manoloblahnik)がシェアした投稿 -

 
 
 
マノロ・ブラニク氏は、スペイン本土の約1500km南西に位置する
カナリア諸島出身の男性。
父親はチェコ人で母親はスペイン人。
母の家系が経営するバナナ農園の子供として、自然いっぱいの環境下で育つ。
 
子供の頃からチョコレートの包み紙を使って
爬虫類に対して靴のようなものを作ってあげる遊びをしていた。
 
その後、ヨーロッパ本土のスイスに渡り、
ジュネーブ大学にて法律の事などを学ぶ。
 
公式サイトによると1960年代後半にフランスのパリにて
アートや舞台芸術を学ぶ中、
アメリカのカリスマ編集者(当時のVOGUE編集長)である
ダイアナ・ヴリーランドにスケッチ画を見てもらった事がきっかけで
靴デザイナーを目指すようになった。
 
 

1970年に自身のブランドをスタート

 
 
1969年からはイギリスのロンドンに定住するようになり、
そして1970年、英国ロンドンのチェルシー地区に最初のブティックを開いた
ほか、
同年にManolo Blahnik International Limitedという会社を設立。
 
以降、家族でこの会社を経営するようになり、
姉妹であるEvangelina Blahnikが1981年から長く会社を率いてきた。
 
ブランド立ち上げ後、エレガントで履き心地も良い
最高のピンヒールシューズを開発し、
"ピンヒールシューズ"
というものを世界中に定着させる。
(もともとは履きづらかったため、1970年代までは定着していなかったと言われる)
 
1980年代に入るとアメリカに進出したが、
当時からの友人であるアナ・ウインターの力添えもあって
アメリカでの事業を軌道に乗せる事にも成功。
 
そんな中、彼の作品はNYのファッションショーにて
カルバン・クライン、オスカー・デラレンタといった
トップデザイナーに採用されるほどになった。
 
1990年にはアメリカにてCFDA賞を受賞したほか、
拠点とするイギリスでも英国ファッション協議会主催の栄誉ある賞イベントにて
アクセサリーデザイナー・オブ・ザ・イヤーを獲得。
 
 

1990年代から世界最高峰の存在として扱われるようになる

 
1990年代に入るとダイアナ妃にまで愛用されるほどになり、
セレブの愛用者もどんどん増えて「靴のロールスロイス」などと呼ばれ始める。
また、この時期にはアメリカの超人気テレビドラマ「SATC」を通じてブランドの人気知名度が一気に急上昇。
 
そのうち日本においても人気が爆発し、2000年代あたりからは世界最高峰のレディースシューズブランドとして認識されるまでになった。
 
2013年には自身の姪っ子にあたる
Kristina Hulsebus Blahnikが運営会社の新たなCEOに就任。
 
 

2017年には彼の映画が公開

 
2017年には
70代に入っても精力的に働く様子などを記録した
「マノロ・ブラニク トカゲに靴を作った少年(Manolo: The Boy Who Made Shoes for Lizards)」
というドキュメンタリー映画が公開され、日本でも大きなニュースとなった。
 
 
2018年にはロンドンに初のメンズブティックも開業。
 
 
映画「マノロ・ブラニク トカゲに靴を作った少年」公式予告

 
 
VOGUE公式チャンネル内の映像

 
 
 
 


 
 
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