ピエール・カルダン(pierre cardin)

 

  • まだ生きているの?
    • 長生きしていたが2020年末に98歳で死去
  • 生年月日
    • 1922年生まれ
  • 性別
    • 男性
  • 出身地
    • イタリア
  • 主な功績
    • プレタポルテを世に広めた
    • パリのトップメゾン内でメンズコレクションに初めて進出
    • ライセンスビジネスというビジネスモデルを確立
    • 1950年代から幅広い人種のモデルを起用

 
 

生い立ちからディオール時代

 
日本が大正時代であった1922年、
イタリア北部のヴェニス付近の街で誕生した男性。
 
その後、ムッソリーニ政権下でイタリアでの生活が困難になってきた中、
生後間もない1924年に家族全員で隣国のフランスに移住。
 
少年時代からデザイナーを目指し始め、
移住先のフランスにて1930年代末にキャリアをスタートして
現地にて服作りの基礎を学び、
1945年にはパリに上京してスキャパレリのスタッフなどとして活動。
 
1946年からは立ち上がったばかりのブランド、
「クリスチャン・ディオール」にて
創業者の片腕として活動する。
 
 
若い頃のカルダン氏

 
 
 

ディオール氏の支援を受けて自身のブランドを設立

 
1950年には独立し、ディオール氏支援のもとで自分のブランドを設立し、
1953年にはファーストコレクション(オートクチュール)を発表。
 
1959年からは一部の富裕層だけでなく、
幅広い人々に裾野を広げるため、手に入りやすい価格帯のプレタポルテ(既製服)コレクション発表するようにもなった。
その1959年には日本の百貨店・高島屋とライセンス契約を交わし、日本に本格上陸。
 
1960年には他のメゾンに先駆けてメンズコレクションも初めて発表。
 
1960年代に入ると、他のメゾンが現地の白人モデルばかりを使う中、
モデルの多様性の時代を見越して日本から呼び寄せた松本弘子や
アフリカ系のモデルをメゾンのモデルに積極起用。
(この動きが、現在のモデルの多様化へとつながる)
 
両性愛者で男性好きである反面がある一方、
1960年代には人気女優・ジャンヌモローと交際をしていた。
 
 

1970年代以降

 
1970年代あたりからは自身のブランドの活動だけでなく
幅広く活動するようになった。
 
また他のデザイナーに先駆けて未開拓の巨大マーケット、
中国ビジネスにも積極的にチャレンジし、
万里の長城でのショーを開催するなど積極的に仕掛けていった結果、
人口10億人を超える中国でのビジネスにも成功。
 
厳しい監修のもとで名義貸しビジネスの事を指す
「ライセンスビジネス」も各国で成功させ、一大で巨大帝国を築いた。
 
日本とのゆかりも深く、
文化服装学院という専門学校で立体裁断を披露したことがあったり
国内で来日ショーを開催した事などがある。
なお、1961年に再来日した際は文化服装学院の名誉教授に就任。
 
 

2021年末に98歳で死去

 
2010年代に入ってからは基本的にパリコレには不参加。
 
2020年には、彼の歴史に迫った
「ライフ・イズ・カラフル」
というドキュメント映画が公開され、劇中に登場。
 
 
2012年に90代を迎えてからも現役バリバリで活躍していたが、
2020年末に98歳で大往生した。
(病死ではなく、老衰での死)
 
ココ・シャネルなどを上回り、
ビジネスセンスや先見性という意味では20世紀最高峰のデザイナーであるとの呼び声が高い。
一方でライセンス(名義貸し)ビジネスに手を出し過ぎ、
ビジネス自体はうまく拡大したものの、
ブランドの価値が伸び悩んだ/落ちた事を弱点に挙げる人もいる。
 
 
 
 
 
 
近年のカルダン氏

 
 
 


 
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