山本耀司(YOHJI YAMAMOTO創業者)

 
 

生年月日

1943年10月3日生まれ

出身地

東京都

主な関連人物

父=山本文雄(戦死)

母=山本冨美

娘=山本里美(デザイナー)

出身校

慶應義塾大学

文化服装学院

 
 

 

生い立ちから文化服装学院時代

 
 
第二次世界大戦の真っただ中の時期にあたる
昭和18年(1943年)秋、新宿にて食に関連するビジネスを行う父のもとに誕生。
 
その父は戦争で戦死し母子家庭となった中、
母は再婚して新しい夫の収入に頼るのではなく、
新宿にて洋裁の仕事をする決意をし、
何の知識もない中で近所にある文化服装学院に大人になってから入学。
文化服装学院で幅広い技術を身につけたのち、実際に新宿にて洋裁店の仕事をスタート。
 
一方、息子の耀司氏はもともとは検察官を目指して慶応義塾大学の法学部入りする。
慶応大学卒業前の時期になると検察官になるのではなく
自身も服飾系の道に進む事を決め、母にその事を相談。
 
当初は母から猛反対をされたが専門学校で専門技術をきちんと学ぶ事を条件に息子の希望を聞き入れ、
母が学んだ学校でもある新宿西口エリアの文化服装学院に入学。
 
文化服装学院にて小池千枝氏をはじめとする優秀な教師の指導のもと、
0から服作りのノウハウを学ぶ中でメキメキと力をつけていき、
在学中には若手の登竜門といわれる「装苑賞」や
新設された「遠藤賞」をダブル受賞するなどの活躍をし、
業界内で将来を嘱望される存在となる。
(装苑賞は、それまでに高田賢三やコシノジュンコ、山本寛斎も受賞している)
 
 

1981年に川久保玲と共に国際デビュー

 
1968年に文化服装学院のデザイン科を卒業したのち、
フランス留学を経験し、帰国すると1972年にワイズという自身の会社を設立。
 
そして、女性的な色合い(赤/ピンクなど)とは対極的な黒の布などを使用する
メンズライク/マニッシュなウィメンズ作品を提供するようになった。
(1970年代後半にはメンズウェア事業もスタート)
 
 
1970年代は国内でデザイナーとして活動したのち、
1981年には同じく慶応大学出身である同世代の東京デザイナー、
川久保玲(コムデギャルソン)と共にパリコレに進出。
 
 
川久保氏同様の黒服系のアヴァンギャルドな作風は
最初のうちこそ現地メディアに酷評される憂き目に遭ったが
シーズンを重ねる毎に川久保玲のコムデギャルソンと共に評価を上げていき、
パリコレデビューからわずか数年で世界的デザイナーの仲間入り。
 
そして逆輸入的に日本でのヨウジヤマモト&コムデギャルソンの人気も沸騰し、
当時の東京の街にはヨウジ&ギャルソンの黒服を着て歩く若者が溢れかえり、
彼ら・彼女は「カラス族(黒服のため)」 と呼ばれ、
この「カラス族」というワードは当時の流行語に。
 
そして2つの黒服ブランドを中心とした
「DCブランド」ブームも起きた中で、
ブームの中心的なデザイナー/ブランドの座に君臨し、
1980年代には日本での事業規模も急拡大。
 
 

1990年代から2000年代後半

 
 
1990年代に入るとパリコレにおけるデザイナーとしての地位は
ますます向上していき、世界最高ランクのプレタポルテ系デザイナーの1人として扱われるようになった。
 
2000年代に入っても海外においてはますますデザイナーとしての地位を高めていたが、
日本における会社経営がおろそかになっていた中、
リーマンショック後の2009年秋に経営破綻という事態に陥り、
ブランドイメージが大きく傷ついたほか、
会社・ブランドは存続の危機を迎えた。
 
 

経営破綻から復活して更なる活躍

 
 
一時期は危機的な状況にあったヨウジヤマモトブランドながら、
経営破綻問題を経て2010年代半ばには状況が回復し、
その後、デザイナーとしてのイメージも見事に回復しただけでなく、
2013年に70歳を迎えてもますます活躍。
 
近年は「生涯現役」宣言もして話題になった。
 
 
 
 


 
 
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