松田光弘(Mitsuhiro Matsuda)
参考文献
ニコル公式サイト/SNSアカウント
生い立ちから1964年の渡仏まで
生年月日 | 1934年4月2日生まれ |
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出身 | 東京都 |
出身校 | 早稲田大学 文化服装学院 |
顔写真(写真左上のサングラス/髭面の男性)
【追悼】 高田賢三インタビュー (2017年収録)。写真は1970年代の高田賢三。松田光弘、コシノジュンコらと一緒にhttps://t.co/Jp8VGfHbRR pic.twitter.com/Axjnrj2NIL
— The Fashion Post(ザ・ファッションポスト) (@THEFASHIONPOST) October 5, 2020
東京都の西部に位置する八王子市の呉服問屋の息子として誕生。
(八王子の「荒井呉服店」の娘である歌手・松任谷由実とバックグラウンドが少し被る)
東京都心の早稲田大学を卒業後、
1950年代後半になってようやく男子学生を受け入れ始めた
文化服装学院(新宿駅西口エリア)に入学。
そこで5つくらい年が自身のよりも若い高田賢三やコシノジュンコ、
そして金子功、黒田明子といった精鋭たちと共に
文化服装学院のデザイン科において、良いライバル関係の中で勉強を共にした。
(彼ら精鋭の事を「花の9期生」と呼ぶ)
卒業後は都心の某企業で働いていた中で賢三氏と共に半年間の休業をし、
1964年秋、文化服装学院時代の同級生である高田賢三&新婚の妻と共に、
文化服装学院時代の恩師である小池千枝先生のすすめもあり、
飛行機ではなく船を利用して世界一のファッションの都・パリに向かう。
長い船旅を経て1965年の正月頃にパリに辿り着いた松田氏と高田氏は、
服飾文化が進んだパリにおいて、
まだココ・シャネルなどが活躍していた時代において
有名ブランドのオートクチュールのショーを観覧するなどの経験をし、パリに圧倒された。
パリからの帰国後
社会人である松田氏と高田氏のパリ旅は当初約半年の予定であった。
そんな中、パリに残って現地で勝負したいと思った高田氏は日本に帰らず、
なんとかパリでやっていく決意をしたが、
松田氏と新婚の妻は予定通り帰国し、2年後の1967年3月にニコルを創業。
そして同月に「NICOLE」という名前のブティックをオープンさせ、
独立したデザイナーとして本格的な活動をスタート。
(運営組織が株式会社ニコルになったのは1971年の事)
1970年代以降は自身や部下によって
- ムッシュ・ニコル
- マダム・ニコル
- ZELDA
など、多数のデザイナーズブランドを立ち上げる。
1974年には東京コレクションの旧運営組織・TD6のメンバーに名を連ね、
1970年代半ばから金子功・菊池武夫・山本寛斎などと
同じ時期に日本国内で大規模なショーを開催するようになったほか、
1980年代にはDCブランドブームのけん引役となった。
なお、松田氏は多数あるブランドの中で、
1976年に立ち上げた「マダム・ニコル(MADAME NICOLE)」のデザイナーとして
日本で開催される東京コレクションに定期参加。
その他、1980年代以降は海外進出も本格化し、
1982年にはアメリカのNYに「MATSUDA」というブティック、
1987年にはパリに「MATSUDA PARIS」というブティックをオープンさせた。
その後、東京コレクションから引退し、
裏方としてニコル社を支えてきたが、2008年5月に癌によって死去。
74年の人生に幕を下ろした。
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