高田賢三(KENZO創業者)

 
 

生い立ち/文化服装学院時代

 
 
生年月日=1939年2月27日生まれ
兵庫県姫路市出身
 
姫路城付近の実家にて生まれ育ち、幼少期には第二次世界大戦を経験。
空襲の中を生き抜き、戦後は兵庫を活動の拠点とする
宝塚歌劇団に熱中するほか、中原淳一に憧れて絵画のスケッチなども好む少年だった。
 
野里小学校・広嶺中学校・姫路西高校を卒業したのち、
もともとは洋裁専門学校に進学したかったが、
当時はなかなか男子学生を募集しているところがなかったため、
1957年春に神戸外国語大学の夜間部(英米文学科)にやむを得ず進学し、
昼間は大学がある神戸の貿易会社で働いたのち、
夕方から学生として過ごす生活をスタートさせた。
 
しかし、ある日、東京の文化服装学院(もともとは女子校)が
同年にはじめて男子にも門戸を開いたという雑誌記事を入学2か月後に見つけ、
いても経ってもなられなくなったため、
両親に上京して文化服装学院に入りたい旨を相談。
最初の時点では大反対されたものの熱意が伝わり、
親に入学が認められ、
わずかな期間で神戸外国語大学を中退し、
1958年春に東京・西新宿の「文化服装学院」に入学。
 
同級生にはコシノ3姉妹の次女であるコシノジュンコ(小篠順子)や
早稲田大学を経て文化に入った少し上の世代の松田光弘、
金子功・北原明子などそうそうたるメンツが揃い、それらの生徒達と
良い友人関係・ライバル関係の中で共に服作りの技術を学びはじめた。
 
立体裁断の高い技術をもつ小池千枝講師の指導のもと、
メキメキと技術を伸ばしていった賢三は新人の登竜門と言われる
「装苑賞」はライバルのコシノジュンコに獲られてしまったが、
その後、その賞を見事受賞する事に成功し、在学中から高い注目を浴びる存在となる。
 
なお、文化服装学院は世界的なパリ系デザイナーも来校して
ゲスト講師として学生を指導する環境の中、学生時代からパリに対する強い憧れをもつようになった。
 
 

パリ渡航後、そのまま現地での活動を開始

 
 
文化服装学院を経て、秋葉原にオフィスがある「ミクラ」という服飾系の会社に就職。
しかし、1年たった頃に文化服装学院同期の北原明子が務めていた
三愛という会社に松田氏と共に移籍。
そして、同級生2人(松田・北原)と共に数年間、三愛で活躍。
 
しかし、先にライバルのジュンコがパリ視察を実現させた中で
賢三の中でパリに行きたいという気持ちはどんどん膨れ上がっていき、
1964年秋に半年間の求職願いを提出し、
もともとは半年の予定で松田氏&その新婚の妻と共に長い船旅にてパリへと向かった。
道中では様々な国の港に立ち寄ったが、各地で見た現地の人達の服装は、のちに彼の作風に大きな影響を与える事になる。
 
長い時間をかけて1965年の元旦にフランス・リヨンの港へと辿り着いたのち、
松田氏と共にパリコレにおいてシャネルなどのオートクチュールショーを観覧するなど、
パリで様々な貴重な経験をする中で、
日本に帰るのが嫌になった賢三はパリに残る決意をし、
様々な営業活動をするようになった。
 
ある日、某世界的デザイナーである、
ルイ・フェロー氏の店にスケッチ画を見せに行ったところ、
デザイナーの奥様に絵が気に入られてスケッチ画を買ってもらえ、お金を得る。
その他の場所でもレベルの高いスケッチ画を次々に売る事に成功し、
パリになんとか残れるお金を確保した賢三は、
労働許可も下りて日本に帰る事なくパリに残れるようになると、
現地での本格的な修行を開始。
 
 
 

1970年代から1990年代後半まで世界的デザイナーとして活躍

 
 
約5年の修行を経験する中で、日本ではかつてのライバルたちが
自身のお店を東京都心にオープンして大成功しはじめ、賢三の心を奮い立たせた。
そんな中、1970年春に「JUNGLE JAP」という名前の店をオープンさせ、独立デザイナーとしてスタートを切った。
 
その後、同じく新人デザイナーとの合同ショー開催などを経て
三宅一生氏同様、1973年にいよいよパリコレにデビュー。
(オートクチュール文化が廃れる中、オートクチュール部門は設ける事なくプレタポルテ専業ブランドとしてスタートを切った)
 
 
すると、様々な文化をミックスさせた独特な作風は
あっという間に現地で高い評価を受け、
パリコレにおいてイヴ・サンローラン、ピエール・カルダンなどと並ぶ
プレタポルテ部門の代表的なデザイナーの一人へと成長
色使いがうまいデザイナーであったため、
「色彩の魔術師」といった愛称もつけられ、世界中から尊敬される。
 
1980年代には日本においてDCブランドブームが起きた中、
コムデギャルソンやヨウジヤマモトなどとと共に、
同ブームをけん引する存在となり、日本での人気・評価もさらに上昇。
 
 
なお、両性愛である事を公表しており、
私生活では30代後半の頃にはルイ14世の末裔である
グザビエ・ドゥ・カステラ氏という男性と出会った。
一方、ルル・ド・ラ・ファレーズという、KENZOブランドとライバル関係にあったサンローラン社お気に入り女性モデルとの仲も話題となる。
 
1990年代に入ると大事な何人かパートナーを離別した中でKENZOブランドの経営は傾き、
1993年には巨大ブランドの買収を続ける
ルイヴィトングループにブランドを売却してオーナーではなくなったが、
デザイナーとしてKENZOブランドにそのまま残り、
ルイヴィトングループの資本をバックに、
ますますKENZOブランドを発展させた。
 
 
その後、1999年秋に盛大に開催されたパリコレ2000SSをもって
KENZOブランドを去るまで、30年に渡り、パリモード界で活躍。
 
 

21世紀以降

 
 
還暦を迎えた年にKENZOブランドから離れたのち、
2000年以降はパリの自宅に住みながら
画家・デザイナーなどとしてマイペースに活動。
 
また、KENZOのパリコレ会場にも度々姿を現し、
メディアの前で元気な姿を見せていた。
 
2010年代に入っても創作活動は続き、
2020年には80代に入ってから
ライフスタイル系ブランド「K3」を立ち上げ、
デザイナーとして再び本格的に活動するようになって
世間を騒がせていたが、2020年秋、
新型コロナウイルスの合併症にて81歳で死去。
 
 
すると、このニュースは世界中で大きく報道され、
パリモード界の重鎮たちから次々に追悼のコメントが寄せられた。
 
 
 
 
 

 
 
 


 
 
 
関連人物

  • 佐々木勉・・・・・1970年代後半から1999年まで20年以上賢三氏を支え続けた三木腕
  • 入江末男・・・・・創業当時の重要スタッフ
  • コシノジュンコ・・・・・最大のライバルと公言する同級生で、彼女は常に賢三の人生に大きな影響を与えてきた
  • 松田光弘・・・・・一緒に渡仏したキーパーソン
  • 北原明子・・・・・花の9期生の1人

 
 
 
 
 

 

 
 
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