カール・ラガーフェルド
フルネーム | カール・オット・ラガーフェルド *ドイツ語発音は"カール・ラガーフェルト" |
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出身 | ドイツ |
生年月日 | 1933年生まれ |
生い立ち/初期キャリア
- サングラス
- 白髪の長髪
- 手にはめたグローブ
を特徴とするモードの帝王。
1933年生まれ。
ドイツ北部のハンブルク出身。
スウェーデン国籍のビジネスマンである父、
クリスチャン・ルートヴィッヒ・オット・ラガーフェルドと
ドイツ人の母、エリザベートとの間に生まれる。
19歳の頃に地元で開催されたDiorのショーに感動してパリに移住。
そして20代初頭だった1954年に
国際ウールマークプライズの前身である賞にて部門賞を受賞。
受賞後、圧倒的な才能を発揮して
パリの様々な高級メゾンのスタッフとして活躍。
その後、パリ・モード界から離脱したものの、
ミラノ系ブランド「FENDI」のビジネスに参加する形でモード界に復帰。
また1960年代に始まったクロエとの関係も年々深くなっていき、
1970年代に入るとChloeのデザイナーとしてますます力を発揮し、
このブランドを世界的なブランドへと押し上げた。
(1975年からはクロエの専任デザイナー)
*さらに1964年から1970年まではKRIZIAのプレタポルテデザイナーとしても活動。
1983年にシャネルデザイナーに
1983年はクロエから離脱し、
創業者のココ・シャネルがなくなってから業績低迷が続いていた
「CHANEL」のデザイナーに就任。
日本でも知名度が高いイネス(Ines de la Fresange)というモデルを
看板モデルとして重用し、瞬く間にシャネルを復興させた。
1980年代後半に入ると、シャネルは完全に輝きを取り戻し、
カール氏も世界最高峰のデザイナーと称されるようになる。
なお、1990年代前半には一時期クロエのデザイナーに復帰したほか、
自身のシグネチャーブランド
「KARL LAGERGELD」
もパリコレに参加していた。
その後、1990年代後半に再びクロエから離脱し、
パリではシャネルと自身のブランドをてがけるようになる。
2003年に70歳・2013年に80歳を迎えてからも
世界最高のデザイナーとして長く活躍していたが、
2019年2月に死去。
イネスだけでなく、数々のスターモデルを発掘してきた事でも知られる。
日本人の川原亜矢子や日系人のデヴォン青木もその中の一人。
カール氏の主な職歴
若い頃からの順番
- ピエール・バルマン
- ジャン・パトゥ
- バレンティノ
- FENDI
- クロエ
- KRIZIA
- シャネル
- カール・ラガーフェルド
その他、デザイナーをフィーチャーしない方針のMAX MARAでデザイナーとして活動していた時期もあり。(詳しい時期は不明)
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