ヴィヴィアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood)

 
 

フルネーム

デイム・ヴィヴィアン・ウエストウッド(Dame Vivienne Westwood)

生年月日

1941年4月8日生まれ

国籍

イギリス/イングランド

子供

ベン・ウエストウッド・・・・デレク・ウエストウッドとの息子

ジョー・コーレ・・・・・マルコム・マクラーレンとの息子

評価

ジョン・ガリアーノなどと並び、英国史上で最も成功したデザイナーという扱い

川久保玲と並び、大企業の支援を受けない独立系女性デザイナーとしては世界最高峰の存在

 
 


 
 
 

小学校の美術教師時代/一度目の離婚

 

英国内・イングランドの中央部に位置する
ダービーシャー州のハーロウという地域の出身の女性。
幼少期から自身のデザイナー・アーティストとしての特異な才能に自ら気づいていたと言われる。
 
10代後半の頃にダービー集の南側に位置する首都・ロンドンへ移住。
 
1960年前後、当時は女性が就ける仕事の選択肢がわずかしかない中、
まずはアーティストを目指して美術学校に入るものの
労働者階級の身分であった彼女は経済的な事情で長く通い続けるできず離脱。
そんな中、今度は教員養成学校に入って美術を専攻しながら画家を目指し、
それがダメなら美術分野の教師になる事にした。
 
結局画家になる事ができなかった彼女は、
英国にて小学校の美術教師として社会人生活をスタートさせる。
そんな生活の中で、自分か学校で着る服を自分で作るようにもなった。
 
数年が経過したのち、1960年代前半、
結婚・妊娠・出産を機に教職を離れる。
なお、最初に結婚した夫との結婚生活は最初のうちだけうまくいったものの
妻であるヴィヴィアンの「外の世界の事がもっと知りたい」という好奇心は
どんどん強くなっていき、3年の結婚生活にピリオドを打った。
 
ただし、離婚後にSwireという旧姓に戻す事はなく、
"ウエストウッド"という初婚の相手の苗字を引き続き使い続ける事になる。
なお、初婚相手のデレク・ウエストウッドとの間には
ベン・ウエストウッドという1人の息子が存在する。
 
 

マルコム・マクラーレンがパートナーだった時代

 
 
その後、世界的な美術&服飾学校である
ロンドンのセントマーチンズ美術大学出身の
マルコム・マクラーレンという男性と1965年(24歳になる年)に出会い、
本格的にデザイナーとして活動し始める。
 
1971年にマルコムと共にロンドンに自分達の店をオープンさせ、
マルコムがプロデュースしはじめたパンク系バンドが1976年にデビューして
大ブレイクすると、マルコム&ヴィヴィアンの店も大ブレイク。
 
1979年のピストルズ解散と共に店は閉鎖。
 
しかし翌1980年には「Worlds End」という店名で再オープンし、
1981年からは少し路線変更してパンク寄りのハイファッション系デザイナーとして活躍し始め、パンク系デザイナーの代名詞的な存在に。
 
ただし、1981年には反逆的思想の持ち主であるマルコム氏と離別した。
 
マルコムとの間にはジョー・コーレ(Joe Corre)という
ベンとは父親が違うもう一人の息子が存在。
 
 
 

1980年年代前半にパリコレデビュー

 
 
自ら別れ話を切り出してマルコムとプライベートでは離別し、
ハイファッション系デザイナーとして
本格的な活動をスタートさせたのち、
コムデギャルソンやヨウジヤマモトといった
反骨心に満ちたアヴァンギャルドな日本ブランドがパリコレで活躍し始めた中、
ヴィヴィアン氏も1983年にパリコレデビュー。
 
しばらくマルコム氏と仕事での関係は続けていたものの、
1983年頃に仕事面でのパートナー関係も解消。
 
1980年代半ばには資金面の問題に抱えて一時期にピンチに陥ったが乗り越え、
バンク色の強い作風も権威あるパリコレにある程度合った
中世ヨーロッパの雰囲気漂うエレガントな ものへと進化させていった中で、
幅広い人々を味方につけて遂にブレイク。
 
 

1988年に第3のパートナーであるクロンターラーと出会う

 
そんな中、1988年に自身が講師を務めていた某大学において
のちにパートナーとなる25歳年下で大学の生徒であった
アンドレアス・クロンターラーというオーストリア人男性と出会う。
 
ヴィヴィアンはその後、クロンターラー氏を自身のもとに呼び寄せて
若い彼と共に創作活動を行うようになり、評価はさらに向上。
 
1990年と1991年にはある世界的なファッションアワードにて2年連続で
「デザイナー・オブ・ザ・イヤー」に輝くまでになった。
 
そして、1993年には四半世紀・年が離れた公私のパートナー、
クロンターラー氏と結婚。
 
 
そして、クロンターラー氏のサポートを受けながら、
パリコレやロンドンコレクションにおいて
1990年前後から2010年代前半にかけて
世界最高峰のデザイナーの1人として長く活躍し続けた。
 
レッドカーペットでも必要不可欠な存在で、
世界中のトップ女優たちが米国アカデミー賞などのレッドカーペットにおいて
彼女がプロデュースした衣装を着用してきた。
 
なお、2000年代半ばには、
英国ファッション業界にとっての偉大な功労者として
エリザベス女王から"ディム(Dame)"の称号が贈られたほか、
2012年にはエリザベス女王即位60周年を記念した
カプセルコレクションを発表。
 
 
 

2010年代後半に第一線を退く

 
 
70代に突入しても精力的に活動していたヴィヴィアン氏であったが
75歳を迎えた2016年に

  • パリコレに参加するゴールドレーベル
  • ロンドンコレクションに参加するレッドレーベル
  • ミラノ(メンズ)に参加するVIVIENNE WESTWOOD MAN

など各レーベルの再編を行い、
パリコレ参加のゴールドレーベルについては
パートナーにデザイナー職を譲って
「アンドレアス・クロンターラーfor ヴィヴィアンウエストウッド」
と改称し、自らはサポート/監修役という位置になった。
 
そして、自身としてはロンドンコレクションにおいて
小規模にレッドレーベル後継ラインのコレクション発表を小規模開催される形に。
 
そういった形で70代半ばに第一線からは退いたが、
その後もパートナーであるアンドレアスと共に総合ディレクター的な立場で活躍し続けている。
  
 
また、「活動家」としての半面をもつ彼女は
かつての反逆的なエネルギーを環境問題に傾け、
2010年代以降は環境活動家としても活躍する。
 
 
 
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Vivienne and me after paris show ...feeling glad !🍆🌊💜

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