コシノジュンコ(Junko Koshino)

 
参考文献
JUNKO KOSHINO公式サイト
東京コレクション公式サイト
その他、ジュンコ氏のテレビ/ラジオでのご本人発言
 
 


 
 
重要ポイント

本名(漢字表記)

小篠順子

生年月日/生まれ年

1939年8月25日生まれ

出身地

大阪府岸和田市

出身専門学校

文化服装学院(東京)

コシノ3姉妹でのポジション

次女

パリコレデビュー

1978年

パリコレ引退

2000年

コシノジュンコの夫の名前は?

鈴木弘之

コシノジュンコの子供(長男)の名前は?

鈴木順之

コシノジュンコの孫

之(ゆき) 男子

 
 

生い立ちから文化服装学院時代

 
 
1939年夏に大阪府岸和田市にて小篠家の次女として誕生。
 
父が戦死した中、家計のため洋装店を営む母のもと手に生まれ、
小さい頃から服作りを間近でみる機会に恵まれた。
 
地元の大阪府立岸和田高校という進学校に入学し、
もともとは画家になる事を目指していたが、
ある日、姉のヒロコが文化服装学院で師事していた
原雅夫さんというスタイル画の権威が
岸和田の家にやってきてジュンコの絵を見るなり、大絶賛。
そんな原氏から洋裁学校に通う事を勧められ、方向転換。
 
高校を卒業すると上京し、姉と同じく文化服装学院に入学し、
パリで立体裁断技術を習得して帰国した小池千枝先生の指導のもと、
高田賢三・松田光弘なとの同級生と共に技術向上に努めた。
 
そんな中、母の仕事を見ながら既にある程度の技術を身に着けていたジュンコは
校内のライバル達に先駆けて
1960年には第7回「装苑賞」を受賞し、校内外で注目を集める存在となった。
(装苑賞とは文化服装学院主催の若手デザイナー向け賞)
 
ちなみに学校でのライバルであった高田賢三は
ジュンコに先を越された事に奮起して頑張り、
その甲斐あって半年後の1961年に第8回装苑賞を受賞している。
 
装苑賞受賞はジュンコにとって大きな追い風となり、
受賞した1960年には社会人ではないにもかかわらず、
銀座の小松ストアーに対して自ら営業活動を行ったところ、
話がうまくまとまり、文化服装学院の学生という身分で、
銀座の小松ストアー出店する機会にも恵まれた。
 
 
 

文化服装学院卒業後

 
 
卒業後は大阪に帰郷する事なく東京都心を拠点として
ファッションデザイナーとしてのキャリアをスタート。
(小松ストアー出店を継続)
 
1964年には松田光弘・高田賢三に先駆けて
憧れの地であったフランスのパリを訪問する機会を作り、
クリスチャン・デいぉーるのショーを生で観覧するなど
大きな刺激を受けて帰国。
 
その1964年にはカメラマンの斎藤亢さんと一度目の結婚。
 
ライバルの賢三氏はジュンコ氏からパリのお土産話を聞く中で
パリに行きたいという想いを強くし、
1964年秋に努めていた会社を休職し、
文化服装学院の同窓生である松田光弘と共に船でパリに渡った。
(つまり、賢三のパリ行きにはライバル・ジュンコの行動が大きく影響している)
 
小松ストア内の店を閉店したのち、
1966年には東京・青山に「コレット」という自身のブティックをオープン。
 
なお、多忙であったほか若かったジュンコ氏の夜遊びも盛んだった中、
生真面目な人物であったという初婚相手との結婚生活はうまくいかず、4年後に離婚。
 
コレットオープンから間もなく、芸能界からの衣装制作の仕事が次々に舞い込み、
1970年前後には当時活躍していたGS(グループサウンズ)の
バンドメンバー達の衣装制作分野でも大活躍。
その頃には都心の夜のディスコなどで有名な人物となり、
「サイケの女王」と異名で話題となった。
 
 
1970年代に入ると、ライバル・高田賢三は
修行を経てパリに「ジャングル・ジャップ」という自身の店をオープンし、
パリでの本格的なデザイナー活動をスタート。
 
それに刺激を受けてジュンコは1971年、
パリでショーを開催する前にまず現地で展示会を開催。
しかし、展示会というスタイルは自身には合わず、
賢三のようなショーによる作品発表が自分には合っていると気づかされ、
日本で様々な準備をしてから、いつかパリコレデビューする事を目指し始める。
 
1970年代半ば、ハンコまで預けていた信頼するスタッフが
3000万円を持ち逃げして倒産の危機に見舞われたが
奇跡的に金銭的な支援者が現れて難を逃れる。
 
私生活では1974年にヘアデザイナーを目指していた
8歳年下の鈴木弘之氏と自動車教習所で出会い、1975年に2度目の結婚。
 
その後、夫とに二人三脚でまず日本でのビジネスを次々に成功させ、
パリデビューに向けた準備を整えると、賢三から遅れる事5年、
1978年には、2人の姉妹に先駆けてパリコレデビューを果たす。
 
 
 

1980年代から2000年のパリコレ引退まで

 
 
1980年には長男・順之が誕生し、子育てをしながら
国際的デザイナーとして活動するようになった。
 
 
また、パリコレデザイナーとして活躍する一方、
 

  • 北京(中国)
  • キューバ
  • ベトナム

など、まだ誰も現地で大きなショーを開催した事がないような未開の地で
大規模なショーを開催し、それぞれの国における地位を開拓する。
 
1995年にはヴェルディ川崎の2代目ユニフォームをデザインしたほか、
バレーボール全日本男子チームのユニフォームデザインするなど、
1980年代から90年代にかけてはユニフォームデザインの仕事でも活躍。
 
 
20年以上パリコレてザイナーとして活動してきたが、
賢三が前年にパリコレから引退したのち、
2000年をもって22年に渡るパリコレ出展から引退。
 
 
 

パリコレ引退後

 
 
2000年にパリコレから引退してからも精力的に活動し続け、
国内で開催される東京コレクション(東京ファッションウイーク)には継続的に参加。
 
さらに2009年にはミャンマーでショーを開催するなど
未開の地で大規模なショーを開催するという事も続けてきた。
 
2010年代初頭には母・アヤコをモデルとする
NHKの朝ドラ「カーネーション」が放映され、時の人となる。
 
 
2021年にはライバルの高田賢三に続き、
フランス国内における長年の功績が認められて
フランス最高勲章「レジオン・ドヌール」の"シュヴァリエ"を受賞。
 
 
2022年3月「人生が変わる1分間の深イイ話」にて
コシノジュンコ密着企画が放送され、
珍しく夫の弘之氏や息子の順之氏がVTRに登場したほか、
孫にあたる之(ゆき)くんもテレビ初登場し、イケメンの孫と話題になった。
 
 
 
仲の良いイケメン孫との2ショット写真

 
 


 
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