田中千代(Chiyo Tanaka)

 
 
参考文献
渋谷ファッション&アート専門学校(旧:東京田中千代服飾専門学校)公式サイト
 
 
 

田中千代さんのプロフィール

 

ふりがな

たなか・ちよ

性別

女性

生年月日/生まれ年

1906年(明治39年)

出身地

東京都

死去した年

1999年(平成11年)

享年

92歳

配偶者

田中薫

 
 

生い立ちから第二次世界大戦時期(1906-1945)

 
 
1906年(明治39年)の8月に、
のちに外務大臣と務める事となる団弱・松井慶四郎、
その妻である照子の長女として東京都で誕生。
 
若くして結婚したのち、20代前半であった1928年(昭和3年)に
夫である田中薫(地質学者)と共にヨーロッパへ渡り、
フランスや英国・ドイツ手にて洋裁の技術やデザインなどを学ぶ。
 
なお、この留学に関しては長い時間をかけて船で欧州に渡るという手段を選択したが、旅の中でアジアや中東の様々な港に立ち寄った中、
様々な民俗衣装と出合い、それかきっかけで民族衣装に強い関心をもつようになった。
 
 
 
帰国後の1932年(昭和7年)、
当時はまだ繊維/アパレル系の企業であった
カネボウの初代デザイナーに就任。
同時にこの年、田中千代学園の前身となる「皐月会」という小規模な洋裁研究グループを立ち上げた。
 
 
皐月会の立ち上げから5年後となる1937年(昭和12年)、
田中千代洋裁研究所を立ち上げ、
デザイナーとしてだけでなく本格的に教育者としての道を歩み始める。
 
 
 
 

第2次世界大戦終結後(デザイナー/教育者として飛躍した1950年代)

 
 
終戦後の1951年(昭和26年)、
田中千代学園という学校法人を設立。
 
 
一方、現役デザイナーとしては日本の歴史上はじめてとされる
「プロのモデルを起用したファッションショー」を開催した。
またこの時期からは昭和天皇の妻にあたる皇后陛下の衣装デザイナーとしても活動し始める。
 
さらにこの年にはカネボウからの要請で
フランスのディオール社からオートクチュール型紙の買い付けを経て、
カネボウの生地(布)を使用して制作した作品をもとにDiorショーを開催。
 
その他、1955年(昭和30年)には自身がまとめた服飾系辞書を発行、
1957年には東京の渋谷に東京田中千代服装学園をオープンさせるなど、
30代後半から40代前半の時期にあたる1950年代は
田中氏にとって飛躍の時期となった。
 
 
 
 

1960年代以降

 
 
1960年には渡欧してフランスのパリやドイツのボン、
イタリアのローマといった大都市にて日本の美を現地に紹介するショーを開催。
(この頃、少し世代が下である森英恵氏はまだ日本で映画衣装の仕事をしていて国際デビュー前)
 
 
還暦を迎えて間もない1967年にはアメリカのニューヨークにて
和のテイストのあるファッションショーを開催し、
このショーの事はニューヨークタイムズでも好意的に報じられた。
 
 
1968年(昭和43年)、教育者としての功績が国に高く評価され、
60代前半の時期にあたる「藍綬褒章」を受章。
 
 
 
1991年には東京都の名誉都民となる。
平成11年(1999年)、92歳で死去。
 
 
 

東京田中千代服飾専門学校のその後

 
 
東京田中千代服飾専門学校は2009年に
「田中千代ファッションカレッジ」へと名称を変更。
さらに2018年には「渋谷ファッション&アート専門学校」へと再度学校名を改めて現在に至る。
 
 
上田安子氏と並ぶ日本のファッションデザイナー界の第一人者として
死後も業界関係者から尊敬され続けている。
 
 
 
 
 


 
関連人物
上田安子
森英恵
 
 
 
 
 
 
 
 

 

 
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