佐藤可士和(アートディレクター/Kashiwa Sato)
参考文献
SAMURAI公式サイト
佐藤可士和氏の生い立ちと多摩美時代
■生年月日は?
1965年2月11日生まれ
■肩書きは?
クリエイティブ・ディレクター兼アートディレクター
1965年2月に東京都内で誕生し、建築家の父のもとで都内にて育つ。
当時住んでいた自宅は父が自ら設計したデザイン性の高いものであった。
高校卒業すると競争率の高さによりストレートでの進学は成らなかったが
2浪して八王子市の郊外エリアにキャンパスがある名門美術大学
「多摩美術大学」に進学して同大学のグラフィックデザイン科で様々な事を学ぶ。
大学卒業後はミュージシャンになる事も一時期考えたが
それは諦めてアートディレクターの道に進む事を在学中に決め、
日本屈指のだ広告代理店企業である株式会社博報堂への入社を決める。
(大貫卓也さんという、尊敬していた大物クリエイティブディレクターが博報堂に所属していた事が入社のきっかけ)
佐藤可士和氏の博報堂時代
1989年の春に博報堂入りした佐藤氏は生まれ育った東京ではなく
関西支社配属となり、チャンスの少ない大阪にて苦悩の日々をおくっていた。
なお、その当時はまだパソコンで仕事をする人は少なかったが
自腹で超高額なパソコン(Mac)を購入し、その頃からデジタル機器で広告の仕事をするという先進的な事を行っていた。
3年間におよぶ大阪時代を経て、
佐藤氏は入社4年目にしてようやく東京本社で働く機会を得る。
大坂から東京に帰ると、
佐野直後に尊敬する大貫卓也さん(その頃に博報堂から独立)が絡む
大きな仕事にクリエイティブ・ディレクターとして参加する機会に恵まれる。
そして大橋氏と共に博報堂において
Honda「ステップワゴン」の広告など大きな仕事を色々と経験。
大橋氏などの天才と関わる中で
「イメージとは外部クリエイターが付与するのではなく、
クライアントがもともと持っているものから引き出すもの」
(自分のエゴ/考え方を押し付けない、というような事)
という重要な考え方に気づく。
その考え方が出来るようになってからは社内において
様々な事がうまくいくようになり、
結果的に博報堂における最後の仕事となった2000年度の
「KIRIN チビレモン」に関する仕事ぶりは業界内のみならず、
一般層の間でも高い評価を受けた。
2000年に独立してSAMURAI社を設立
35歳を迎える2000年に博報堂から独立した佐藤氏は
同年にSAMURAIという自身のクリエイティブ・ディレクターを設立。
スタジオ開設後の最初の仕事は、
当時一世を風靡していたアイドルグループのSMAPに関する仕事で、
SMAPのCDジャケットやグッズデザイン。
また2003年にはTカードの印象的なロゴをデザインするなど
世間に目が降れる大型案件を手がける中で業界内での評価・知名度は急上昇。
その他、2004年にはMr.Chidrenのアルバム「シフトノオト」のジャケットもデザイン。
2000年代半ばから大物ビジネスマン(三木谷浩史/柳井正)の相棒として活躍し出す
2003年頃からは当時急成長していた楽天からのオファーを受けて
誕生日がほとんど同じだと言う共通点がある三木谷浩史氏と出会い、
三木谷氏の相棒として楽天株式会社に大きな影響を与える存在に。
楽天のイメージ戦略などに大きく貢献してきた佐藤氏は世間で話題の存在となっていき、
2006年1月にはNHKの国民的人気番組
「プロフェッショナル」
に取り上げられるまでになる。
その直後にはNHK「プロフェッショナル」を視聴して
その仕事ぶりのすごさに感銘を受けたファーストリテイリングの
柳井正社長/会長から直接のオファーを受け、柳井氏と初対面。
対面した柳井氏から気に入られた佐藤氏は
ユニクロのニューヨーク進出に関する大きな仕事をいきなり任されたが、
この巨大プロジェクトを見事に成功させて柳井氏からの評価はさらに上昇。
柳井氏とは毎週のように会談を重ねる親しい間柄となり、
そのミーティングの中から
- UT(ユニクロのTシャツ専門店)
- ビックロ(ユニクロとビックカメラの異業種協業)
など様々なアイデアが生まれ、
それらの意外性のあるプロジェクトも次々に成功させてきた。
2010年代はさらなる飛躍の時代となり、
数々のプロジェクトを軒並み成功させる中で
日本の広告界の最高峰の人物としての地位を確立させている。
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