アルミ・ラティア(Armi Ratia)
参考文献
マリメッコ公式サイトの各デザイナープロフィール
https://www.marimekko.jp/the-brand/designers/armi-ratia
性別 | 女性 |
---|---|
出生名/フルネーム | アルミ・アイラクシネン |
生年月日 | 1912年7月13日生まれ |
没年月日 | 1979年10月3日 |
国籍/出身 | フィンランド |
配偶者 | ヴィリヨ・ラティア |
会社での立場 | 経営者 テキスタイルデザイナー アーティスティサックディレクター |
初期キャリア
1912年にフィンランド東部のカレリア地方の街で誕生。
父親は商店経営者である一方、父親は教師であった。
一家の長女であり、妹1人と弟3人が存在する。
1930年代前半、20歳の頃にヴィリヨ・ラティアという男性に出会い、
1935年にデザイン専門学校卒業するとテキスタイルアーティストとして
本格的に活動し始めたほか若くしてヴィリヨと結婚し、ラティア姓となる。
ラティア家はお金持ちで、その資金力を利用して織物工場を立ち上げるが、
すぐに戦争が勃発してしまい、家族など様々な物を一気に失ってしまう。
(その頃に住んでいた土地はロシア領となった)
それを機にラティア夫妻はフィンランドの首都であるヘルシンキに移住。
1951年にマリメッコを設立
アルミは移住後、1942年から広告会社でコピーライターとして働くようになる。
第二次世界大戦が終結したのち、1949年には7年間務めてきた広告会社を解雇される。
それを機に夫が立ち上げたファブリック会社で働くようになり、
そこで色鮮やかな生地を創り出すようになる。
そこから発展して1951年には、自らのファーストネームであるarmiのスペルを入れ替えたMariという語句、
そしてフィンランド語で「ドレス」を意味するmekkoという単語を掛け合わせた「marimekko」というライフスタイル系ブランドを設立。
設立直後にファッションショーを開催するとそれが大成功し、
色座やかなプリント生地をそのまま使用したようなドレス商品やライフスタイル商品を展開。
戦後に人々の心がまだ暗い中でマリメッコが展開する明るい色の華やかな作品は当時の女性達の間で受け入れ、人気ブランドへと成長。
世界進出を進める中で1960年には
アメリカのジャクリーン・ケネディ(大統領候補の妻)がマリメッコの服を購入するという出来事が起き、アメリカでも話題のブランドとなる。
1964年には、マイヤ・イソラという所属デザイナーにより、
ブランドのアイコン的な花柄「ウニッコ」が誕生。
ウニッコの実物
「シェア」することは、つながること
— 伊勢丹新宿店 (公式) (@isetanshinjuku) November 21, 2021
記念のマグカップセット☕️
ケシの花をモチーフにした「ウニッコ」柄を大きく配置した<マリメッコ>のマグカップ☕️
創立70周年を記念した、ボルドーとゴールドのアクセントカラー✨#メリーフューチャー2021#伊勢丹のクリスマス2021https://t.co/tdgc7MyZ06 pic.twitter.com/dpDFhyT00T
1979年に死去
晩年は糖尿病に苦しみ、1979年10月に60代後半で死去。
マリメッコ公式サイトによると
会社にとって絶対的な存在であったアルミが亡くなってからは
実に10年に渡って試行錯誤の日々が続いたとの事。
そんな中、1985年にアルミの遺産相続者たちは外部へのブランド売却を決意。
その後、危機を乗り越えてマリメッコはますますの成長を遂げ、
世界最高ランクのライフスタイル/ファブリック系ブランドとなり、
日本でもたくさんのファンを抱えるようになった。
21世紀に入ると不定期でパリコレにも参加するようになり、ますますブランド価値は向上。
2016年に伝記的な映画が公開される
2016年には彼女の人生を描いた伝記系の映画「ファブリックの女王」が公開され、
創業時の苦労、謎に包まれた彼女の素顔、意外な一面など様々な事が明らかになった。
関連人物
マイヤ・イソラ・・・・・「ウニッコ」柄考案の伝説的デザイナー
石本藤雄・・・・・・1974年から32年から活躍した日本人デザイナー
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