ニノ・チェルッティ(Nino Cerruti)

 
 

ふりがな

にの・ちぇるってぃ

21世紀以降はイタリア語発音の「チェルッティ」表記が日本では一般的。ただし、1990年代の時点では「セルッティ」という英語発音表記が一般的であった。

生年月日

1930年9月25日生まれ

出身

イタリア

 
 
顔写真

 
 
1930年、イタリア北部のBiella(ビエッラ)という街で誕生。
祖父の世代は1881年に繊維工場を開業し、父親もその仕事に従事していた。
 
もともとはジャーナリストを目指して政治学を学んでいたが、
1950年、父の死をきっかけとしてファミリービジネスに参画する事になり、
アパレル業界でのキャリアをスタート。
 
1957年にはイタリア国内で「ヒットマン」というブランドを創設。
1964年には、その「ヒットマン(Hitman)」のデザイナーとして
百貨店のバイヤー出身のジョルジオ・アルマーニ(1934年生)を
メンズ部門のデザイナーとして招き入れ、彼を育てた。
(アルマーニ氏は1970年にチェルッティから独立)
 
1967年には
Lanificio FratelliCerrutiグループにおける
廉価版ラインという位置づけの「Cerruti 1881」をスタートすると共に
パリに移住して、メンズコレクションを発表し始める。
 
1976年にはパリに「Cerruti 1881」の婦人服(既製服)の店をオープン。
 
1977年には、のちにエルメス・メンズ部門のデザイナーとして長く活躍する事となる
ヴェロニク・ニシャニアンというパリ出身の女性を雇い、
彼女を「Cerruti 1881」メンズライン&ライセンス商品のデザイナーに起用。
(ヴェロニクは1987年まで同職で活躍したのち、1988年にエルメスへ移籍)
 
 
1980年代からはアメリカに進出し、
多数のハリウッド俳優・女優の衣装デザイナーとして活動し、
1990年には日本でも大ヒットしたジュリア・ロバーツ主演映画
「プリティ・ウーマン」の衣装デザインも担当。
その他、1990年代にはイタリアのフェラーリF1チームの公式デザイナーとして活動していた時期もあり。
 
パリコレクションにおいては、
1990年代にレディース・プレタポルテ部門の主要デザイナーとして活躍。
メンズ分野に関しても、「Cerruti 1881」パリコレのメンズ部門の中心的な存在であり続けた。
 
 
1990年代末までメンズ・レディース両分野で活躍してきたが、
2000年秋にイタリアの会社に株式の半数以上を売却。
 
紆余曲折を経て主要ブランドの「チェルッティ1881」は
2010年代に入って再びパリメンズコレクションにて輝くようになった。
 
2020年に90歳を迎えたニノ氏であったが、
2022年1月中旬にイタリア国内の病院で亡くなった(享年91歳)。
 
かつての部下であるアルマーニ氏同様に
20世紀のパリ・ミラノにて最も活躍したメンズ系デザイナーであり、
亡くなったあと、パリコレクションやミラノコレクションの主催団体トップなどが追悼のコメントを寄せた。
 
 


 
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