石橋正二郎(Shojiro Ishibashi)
参考文献
https://www.ishibashi-bunka.jp/kinenkan/
https://www.ishibashi-foundation.or.jp/founder/
ふりがな | いしばし・しょうじろう |
---|---|
生年 | 1889年 |
没年 | 1976年 |
主審地 | 福岡県久留米市 |
出身校/学歴 | 久留米商業学校 |
父 | 徳次郎 |
兄 | 重太郎(2代目徳次郎襲名) |
長男 | 石橋幹一郎(2代目社長) |
生い立ち/足袋職人時代
明治22年(1889年)、福岡県の久留米市にて誕生。
地元の学校を卒業すると家業である仕立物業「志まや」を兄と共に継ぎ、
全国的に発展するような大きな事業を行う事を志す。
直後に兄が軍隊入りしたため経営を完全に一人で任されるようになり、
シャツやズボン下・足袋など色々なものを扱っていた中、
「足袋」に事業を絞る事を決定。
そして「志まや」を足袋専業メーカーとして大きく成長させる。
一方、1912年には上京した際、九州では見かける事のなかった
「自動車」という機械に試乗する機会を得たうえ、
高価な自動車を一代購入して九州に持ち帰った。
1914年、第一次大戦開戦の年には「20銭均一アサヒ足袋」を大ヒットさせる。
(この年から「志まや」に替わって「アサヒ」をブランド名にする)
1918年には日本足袋株式会社を設立。
兄が社長に就任、自身は専務に就任した。
しかし、大地次大戦後の恐慌により、新設した会社はなかなかうまくいかない。
そんな中1921年、タイヤとの接点の原点と言える
「ゴム底足袋」の開発をスタートさせ、翌1922年には頑丈なゴム底足袋の生産に成功。
その後、洋服の西洋化が進む日本において
洋装に合う「ゴム靴」の生産にも進出し、この事業も成功させる。
タイヤ事業進出
ゴム底足袋・ゴム靴の事業を成功した正二郎は、
海外製ばかりだったタイヤの日本産を目指し、
1929年末にタイヤ工場を準備。
日本足袋株式会社内に「タイヤ部」を新設して自動車タイヤの試作を開始。
数カ月後の1930年4月には早くも「ブリヂストンタイヤ」第1号を完成させる。
ブランド名については自らの名字を構成する漢字
- 石(stone)
- 橋(bridge)
からBridgeStoneに決め、1931年1月に
タイヤ部を発展させて「ブリッヂストンタイヤ株式会社」を設立。
初代社長に就任する(兄は相談役)。
品質の良い正二郎製作のタイヤは
1932年に早くも日本フォード社から納入適格品として認められたほか
日本ゼネラルモータースからも高い評価を受け、
1930年代半ばからはタイヤ事業が急成長。
1937年には本社を久留米から東京へと移転。
混乱の第二次大戦を経て、1953年には売上高100億円を突破し、国内の業界首位企業に。
1951年、正二郎自らアメリカを訪問し、アメリカのグッドイヤー社との提携が実現。
1961年には一代で会社を株式公開に導くなど
偉大な功績を残して1963年、息子の幹一郎に社長職をバトンタッチして会長へ移行。
1963年の会長移行後
会長に移行したものの公式サイトの沿革によると
それは引退を意味するものではなく、引き続き実質的な会社のトップに君臨。
しかし、ある程度時間に余裕ができた中で活動の幅を広げ、
1966年には文化事業圏の財団「石橋財団」を設立し、理事長に就任。
1973年、10年務めた会長からも退任する事になり、ビジネスの世界から引退。
会長在任中の晩年にはパーキンソン病を患い、
引退後は自宅での静養につとめてきたものの1976年春に入院。
半年後の1976年秋、87歳で死去。
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