青山五郎(Goro Aoyama)
参考文献
青山商事公式サイト
生年月日 | 1930年生まれ |
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享年 | 77歳(2008年死去) |
出身地 | 広島県府中市(東京の府中市ではない) |
初期キャリア(大蔵省専売局時代)
昭和5年(1930年)、広島県南東部の府中市にて誕生。
戦後の1949年に旧制府中中学校を卒業した五郎氏ながら、
原因不明の病に見舞われて大学進学を断念。
そんな中、大蔵省専売局(今の日本たばこ産業)の府中支局に就職し、経理の仕事などを経験。
1964年に青山商事を創業
20代の時期に大蔵省専売局でて様々な経験を積んだ五郎氏は、
もともとの計画通り、30代に入って独立。
そして、青山商事株式会社を設立。
地元・府中の商店街の中にある自宅を改造して小さな店を作り、紳士服の販売をスタート。
(開店当初は、紳士服販売だけで経営が成り立たなかったため、地元特産物の販売なども行っていた)
その当時の日本は高度経済成長期にあり、
農家などの仕事ではなく背広を着て働く会社員がどんどん増えていく過程にあった。
また、高価なオーダーメイド(オートクチュール)ではなく
手に入りやすい価格の既製服(プレタポルテ)の背広の需要が高まる中、
資金繰りに苦しみながらも時代の後押しを受けて会社は成長。
1969年3月期には会社の売上高が1億円を突破した。
この時期に、苦肉の策で売っていた地元特産品の販売などから手を引き、紳士服販売専門の会社となる。
1970年代に景気後退の煽り(あおり)を受けてロードサイド店にシフト
1970年代初頭まで急成長が続いていた青山商事であったが、
高度経済成長の時期が一段落した1972年頃から景気が落ち込み、消費が冷え込みの煽りを受ける。
さらにオイルショックが起きてさらなる煽りを受けた中、
街の一等地に出店している事の恩恵を受けられなくなった。
同時期、1972年に五郎氏はアメリカ視察を行った際に
栄えている町から遠く離れたショッピングセンターに
庶民が「車で」買い物に訪れる風景を目の当たりにし、
地下の安い郊外店舗の可能性に気付く。
そして1974年、東広島市に豊富な品揃えの初のロードサイド型紳士服店をオープン。
人々のマイカー所有率がどんどん高まる中、
地元のTVCMではなく紙のチラシの広告をうまく活用し、
チェーンの規模はどんどん拡大して1983年には売上高100億円を達成。
さらに1985年には「洋服の青山」が全国50店舗を達成した。
しかし、慢心/おごりも関連した大量の飲酒がたたり、
五郎氏は1986年秋に脳梗塞で倒れ、しばらくの休養を余儀なくされた。
3カ月の休養は自身の生き方や経営姿勢を見直す良い機会となり、
1987年1月に退院すると、また精力的に働きだす。
1987年に上場企業となる
1月に退院してから自身や社員の意識改革に奔走する中、
1987年11月には、大阪証券取引所・第二部、そして広島証券取引所への上場を果たす。
上場以降は、1964年の創業時期に掲げた
「日本一の洋服店」になるという目標に向けて頑張り、
1991年にはタカキューを抜いて、その目標を達成。
バブル崩壊が追い風となる
1993年頃に顕在化した日本経済のバブル崩壊は、多くの日本企業の業績に大打撃を与えた。
しかし、都会の一等地の地下(賃料)が下がるという現象は
青山商事にとっては好都合で、銀座の一等地に店を出すなど
街中店舗の積極展開などを行って、さらに規模・業績を拡大。
会長となった1997年以降/2008年死去
一代で会社を「日本一の洋服店チェーン」まで押し上げた五郎氏は1997年6月、
義理の弟にあたる宮前省三専務を後継者に指名し、
会長に就任して経営の第一線から退いた。
(2005年には五郎氏の息子である青山理氏が宮前氏に替わって3代目社長となる)
息子が社長に就任して活躍しているのを見届けたのち、
2008年1月に77歳で死去。
同じく中国地方出身の柳井正氏などと並び、稀代の経営者の一人に数えられる。
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