山口小夜子(Sayoko Yamaguchi)
参考文献
氷の花火公式サイト
http://yamaguchisayoko.com/
初期キャリア
1949年9月19日生まれ。
横浜市に海に近いエリアの出身。
高校卒業後に東京の服飾専門学校入りし、
もともとはデザイナーを目指していたが、
高い身長と容姿/プロポーションの良さをいかし
校内で仮縫いモデルとして活動するようになり、方向転換。
専門学校を卒業して1971年にモデルデビューを果たしたが
当時の日本の業界では金髪の身長180cn前後の西洋人モデルの需要しかないような状態で、黒髪で身長165cm程度の彼女には仕事が来ず、しばらくは不遇の時代が続く。
1972年から1985年までのパリコレモデル時代
モデル業をやめる事も考えた小夜子ながら
のちにパートナーとして強固なタッグを組む事となる山本寛斎との出会いにより、状況が好転。
様々な仕事が次々に舞い込むようになる。
そして、国内で開催される海外デザイナーの来日ショーなどで活躍したのち、
1972年にはオートクチュール部門でパリコレにデビュー。
国内では1973年に資生堂とのCM契約がスタート。
翌1973年に三宅一生と高田賢三、
1974年に山本寛斎がパリコレにデビューすると、
上記の日本人デザイナーのショーにてミューズとして活躍。
特に山本寛斎の仕事にはモデルとして出演するだけでなく、裏方分野に至るまで深く携わった。
新人時代にはアメリカのニューズウィーク誌で
「世界の4人の新しいトップモデル」の一人に選出。
1980年前後の時期からは日本人デザイナーだけでなく
- イヴ・サンローラン
- ティエリー・ミュグレー
- クロード・モンタナ
- ジャンポール・ゴルチエ
など海外の世界的デザイナーのショーにもたくさん出演し、
世界指折りのスーパーモデルの1人へと昇りつめた。
1986年以降から死去まで
1985年にパリコレの世界から引退、
1986年には13年続いた資生堂との契約も終了。
そして1980年代以降は国内でモデルとしてだけでなく
女優・デザイナー業など幅広く活動するようになった。
21世紀に入るとさらに活動のフィールドを広げ、
晩年は若い人達とのクラブ(旧ディスコ)での交流も盛んに行った。
1999年に50歳を迎えてからも
モデルとしても2000年代半ばまで現役バリバリで活躍していたが、
2007年に急性肺炎で死去。
57年の生涯を終えた。
死後、より影響力が高まる
2007年に亡くなったあとテレビで小夜子特集が組まれたり
2015年に伝記映画「氷の花火」が公開されるなど
死去後に更なる脚光を浴び、より影響力を強める。
関連映像
『氷の花火 山口小夜子』予告編
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