豊田喜一郎(Kiichiro Toyoda)
参考文献
https://www.toyota-shokki.co.jp/company/history/toyoda_sakichi/
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/index.html
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter1/section3/item1.html
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section7/item3_e.html
https://www.toyota-shokki.co.jp/company/history/index.html
生年月日 | 1894年6月11日 |
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出身地 | 静岡県敷知郡吉津村(静岡県湖西市) |
没年月日 | 1952年3月27日 |
出身大学(学歴) | 東京帝国大学(現:東京大学) |
主な肩書き | トヨタ自動車創業者・・・・・ただし初代社長は義弟で年上の利三郎 トヨタ自動車2代目社長 |
主な親族
父親 | 豊田佐吉 |
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実母 | たみ |
義母 | 浅子・・・・・佐吉の二番目の妻/妹愛子の実母 |
おじ | 豊田平吉 |
妹/異母 | (豊田)愛子 |
妻 | (飯田)二十子・・・・・百貨店大手「高島屋」創業家の女性 |
義弟 | 豊田利三郎(妹・愛子の婿)・・・・・トヨタ初代社長。年齢は喜一郎よりだいぶ上 |
息子 | 豊田章一郎・・・・・・トヨタ6代目社長 豊田達郎・・・・・・トヨタ7代目社長 |
孫 | 豊田章男・・・・・・トヨタ11代目社長 |
ひ孫 | 豊田大輔 |
生い立ちから大学時代
明治27年(1894年)6月、
動力織機の開発にいそしむ事業家/発明家・豊田佐吉と最初の結婚相手との間に、
愛知県に面した静岡県湖西市にあたる地域で誕生。
生後数年間は湖西市エリアの祖父母のもとで暮らし、
3歳の頃から名古屋でビジネスをする父と共に生活するようになった。
少年時代は工場敷地内の住宅で過ごす中、
自動車ではないものの「織機」というアナログな機械を身近に感じながら過ごす。
愛知県立師範学校付属高等小学校
私立明倫中学校を経て仙台の第二高等学校に進み、この高校で工業系の勉強を積んだが、
この学校では、のちに自身の自動車事業を手伝ってもらう事になる仲間と出会う。
高校を卒業すると東京帝国大学(のちの東京大学)に進学し、
こちらでものちの自動車事業をサポートしてくれる事になる人物とさらに数人知り合う。
社会人初期は繊維/アパレル業界人
1920年夏に大学を卒業してからは1918年に父が設立した繊維系企業、
豊田紡織にて働くつもりだったものの、
その会社では義弟ながら自身より10歳も年上の利三郎が実質的なトップとして働いていて
自身が指揮をとれる状態ではなかったため
すぐ大学に戻って今度は法学部に入り、会社経営に関する総合的な知識の習得をする事に。
しかし翌1921年春、家庭の事業で故郷に呼び戻され、豊田紡織にて社会人キャリアをスタート。
そして日々紡績技術や織布技術を学びながら、「自動織機」に研究・開発に従事していく。
つまり、もともと自動車畑の人間であったわけではなく、「機械」は絡むものの繊維・アパレル業界人であった。
1921年には利三郎/愛子夫妻と共に約半年の欧州視察を行い、
先をいく現地の織機を通じて「自動織機」開発のヒントをつかみ、1922年2月に帰国。
[私生活]
高島屋創業家・飯田家の女性、二十子(7歳年下)と1922年に結婚。
1925年には、のちにトヨタ自動車6代目社長として活躍する事になる章一郎、
1929年には7代目社長として活躍する達郎が誕生。
その後、アナログな織機とは異なる「自動織機」という機械の発明/完成に大きく貢献し
1926年に自動織機の大量生産を目的とした「株式会社豊田自動織機製作所(トヨタ自動車の源流)」を父が設立すると、
10歳年上の義弟・利三郎は社長、自身は常務取締役に就任。
そして、「自動織機」の生産台数を段階的に増やしていった。
(社史によると喜一郎は、豊田自動織機製作所設立当初から、自動織機から発展して「自動車」の生産に参入する事をもくろんでいた模様)
[補足/自動車事業参の背景]
1923年に関東大震災が発生した際、鉄道網(路面電車含む)は機能しなくなった一方、
もともと贅沢品として捉えられていた「自動車」は震災直後に
■輸送手段として
■人命救出手段として
被災地で大活躍。
その事は、「自動車」というものの利便性・将来性の高さは幅広く認知され、
日本での自動車需要が高まる中で翌1924年からは小型の「バス」という自動車が人々の輸送手段として定着していった。
そんな中、米国のフォード社は1924年に日本法人を立ち上げ、ゼネラルモータースもそれに追随。
父の死後、機械繋がりで自動車事業に参入("自動織機"から"自動車"へ)
1930年秋(昭和5年)に繊維(紡績)業界・織機界の偉人、佐吉が死去。
その時期、株式会社豊田自動織機製作所は事業の多角化をもくろむ中で
喜一郎と数人の同士は1931年に本業である自動織機事業にいそしむ一方、
成長著しい自動車事業に参入するため、まず小型エンジンの試作に着手。
(多角化という意味では、自動車製造業のほか「紡績機械」の進出も検討していた模様)
1933年に入ると遂に小型エンジンを製造して自転車にとりつけ、試運転をするところまで進展。
そして1933年(昭和8年)9月に株式会社豊田自動織機製作所内で自動車製造部門(自動車部)を立ち上げた。
1934年春には自動車の試作工場を設立し、1935年に春には乗用車(A1型試作乗用車)が完成。
同年夏にはトラック(G1型トラック)も完成させる。
1936年には完成した車を消費者に届けるための販売会社、
月賦販売(分割払い)希望者の受け皿としての金融会社を設立。
同年には国から「自動車製造事業法」の許可会社として指定を受け、
1937年夏に豊田自動織機製作所から「自動車部」を分離・独立させる形で
「トヨタ自動車工業(現:トヨタ自動車)」を設立。
その会社の初代社長には義弟の利三郎が就任し、自身は副社長という役職に。
1941年からは約10年トヨタ自動車社長を務める
1941年には社長職を義弟の利三郎から引き継ぎ、トヨタ自動車工業の2代目社長に。
また自動車事業から発展して航空機事業にも強い関心を寄せ始め、1940年代に入るとヘリコプターの試作に着手。
(戦時中は当時の様々な法律・既製の中、民需ではなく軍需に応えるビジネス展開を余儀なくされた)
そこから10年近く社長を務めてきたが、1950年に入ると人員整理に関する労働者側との対立が起き、1950年春に社長を辞任。
1952年春に57歳で死去
社長を辞任してからはヘリコプター事業の研究に従事。
1950年10月には「藍綬褒章」を受章。
社史によると1952年には社長復帰への準備を進めていて
7月の株主総会を期に復帰するつもりでいたが、
そんな矢先の3月に脳いっ血で急死。
死後、70年以上が経過しても、日本経済を支える「自動車産業」の父として日本の幅広い人々からリスペクトされている。
なお、喜一郎の死から4年後の1956年に誕生した孫・豊田章男は2009年にトヨタ自動車の11代目社長に就任し、そこから14年に渡って社長を務めた。
関連映像
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