大原孫三郎(Magosaburo Ohara)

 
 
参考文献
https://www.kurabo.co.jp/sogyo/
https://www.kurabo.co.jp/company/chronology.html
https://www.kuraray.co.jp/company/history/1950
https://www.ohara.or.jp/history/history2/
 


 
 

ふりがな

おおはら。まごさぶろう

*「そんざぶろう」ではない

生年

1880年

没年

1943年

 
 

生い立ち/初期キャリア

 
明治13年(1880年)、
藤田家から大原家に婿入り(婿養子)した大原孝四郎の次男として
岡山の倉敷で誕生。
 
父は1988年、クラボウの前身となる
有限責任倉敷紡績所を設立。
 
上京して現在の早稲田大学にあたる機関で学びだすが、最初の頃は怠惰な生活を送る。
 
改心して20歳前後の時期からは若くして慈善事業に興味をもつようになり、若くして活動しはじめる。
 
 

社長就任以降(1906年から1920年代)

 
20代前半だった1904年には家督を相続し、
1906年には倉敷紡績(クラボウ)の2代目社長に就任。
 
1921年、一部の労働者が社内で過酷な労働を強いられている中、
そんな状況を科学的に改善するため、「倉敷労働科学研究所」を設立。
 
1923年、従業員が1万人近くまで膨れ上がった中、
彼ら・彼女らの健康維持のため「倉紡中央病院」を設立。
 
 
1926年には近隣地域でレーヨン系事業の
倉敷絹織(のちのクラレ)を設立し、自らが初代社長に。
 
 
1923年、従業員が1万人近くまで膨れ上がった中、
彼ら・彼女らの健康維持のため「倉紡中央病院」を設立。
(その後、社員だけでなく近隣の一般住民にも開放される)
 
1929年、友人の芸術家・児島虎次郎を若くして失い、
彼の生前の作品を公開するため美術館を建てる事を決意。
 
 
 

晩年(1930年代以降)

 
そして1930年、児島虎次郎の死をきっかけとする
日本最初の西洋美術館「大原美術館」を開館。
 
また中国銀行を設立して頭取となる。
 
一方、長年の功績が高く評価されて国からは「紺綬褒章飾版」を授与された。
 
1939年、33年務めてきた倉敷紡績(クラボウ)の社長を退任。
 
その4年後、1943年に60代前半の若さで死去。
 
 
 
 
 
 

 

 
 
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