福原信三(Shinzo Fukuhara)

 
 
参考文献
https://corp.shiseido.com/jp/company/history/
https://www.jp-photo.gr.jp/founder/
https://gallery.shiseido.com/jp/access/
 
 


 
 

生年

1883年7月25日

没年

1948年11月4日

主な肩書き

実業家(株式会社資生堂初代社長)

芸術家(日本写真会創設者/初代会長)

父親

福原有信

息子

福原義春

 
 

生い立ち/学生時代(芸術と薬学を学ぶ)

 
明治13年(1883年)、
個人事業で資生堂という薬店を銀座で営業する福原有信の三男として誕生。
 
幼少期から芸術に関心を示し、1895年(12歳になる年)には日本画の世界に入り、著名画家の指導を受けるようになる。
 
一方で父親が薬店を営んでいるという背景をもつ彼は
現在の千葉大学にあたる千葉医学専門学校で薬学を学び、1906年に卒業。
 
1908年、先進の薬学を学ぶため渡米し、
アメリカの名門大学であるコロンビア大学入り。
1910年に同大学の薬学部を卒業。
 
卒業後はすぐに帰国して家業入りする事なく欧州に渡り、
パリを拠点とする藤田嗣治をはじめとして
現地で様々なアーティストと交流して感性を磨いた。
 
 

1913年の帰国後

 
 
そして1913年の末に帰国すると
長男の病気・次男の早死にで事業を継ぐ立場になった彼は
翌1914年から本格的に父の事業を手伝い始める。
 
1916年には資生堂の化粧品事業を強化すべく
薬局の近隣に化粧品販売支店のような店をオープン。
 
建物は

  • 1階が店舗
  • 2階が化粧品製造場
  • 3階が新規設置の試験室/意匠部

という構成に。
 
薬学だけでなくアートに対する造詣も深い事を大いに生かし、
研究室だけでなくデザインや広告制作に関する「意匠部」も設置した彼は、
自ら新設した意匠部を率い
女性受けする美しい香水などおしゃれな商品を当時の女性に提供。
 
視覚を通じて資生堂が今日まで築き上げてきた
上品でおしゃれなブランドイメージの基礎を作る。
(公式資料によると「花椿」マーク、現在のロゴ書体の基盤などを作った)
 
 
 

アート分野でも引き続き活躍

 
化学系の実業家としての半面と併せて芸術家(写真家)としての半面ももつ彼は
資生堂の事業を父から継いでからもそれに専念する事はなく、
1919年には銀座の化粧品部2階に日本最古の画廊とされる資生堂アートギャラリーを開設。
 
1924年には日本写真会を結成して初代会長に就任するなどアート/写真界の発展にも大きく貢献。
 
 
 

資生堂初代社長時代/晩年

 
父が個人経営していた薬局・資生堂を法人化する形で
1927年に「株式会社資生堂」を設立すると、その組織の初代社長に就任。
 
晩年まで経営者/芸術家として活躍したのち、
戦後の1948年秋、65歳で死去。
 
 
[父と並ぶ功労者]
彼が芸術/美に対する意識の低い人間だったとしたら
今日の資生堂はまったく違うイメージになってしまっていたかもしれないほか
男くさい感性で経営をしていたら成功はしていなかった可能性もあるという意味で、創業者の父と並ぶ資生堂最大の功労者として強くリスペクトされる存在。
 
 
 


 
関連人物
福原有信
 
 

 

 
 
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