2代目・伊藤忠兵衛
参考文献
https://www.itochu.co.jp/ja/about/history/tougegoe.html
https://www.itochu.co.jp/ja/about/profile/index.html
https://www.marubeni.com/jp/company/history/
https://kumagawa-juku.com/map/watch/旧逸見勘兵衛家住宅/
2社の会社概要では、創業者=初代・忠兵衛と記されているものの、
実質的には伊藤忠・丸紅の創設者/設置者にあたる偉大な人物。
よみかた | いとう・ちゅうべえ |
---|---|
出生名 | 伊藤精一 |
生年 | 1886年 |
没年 | 1973年 |
初代・忠兵衛との続柄 | 次男 *末っ子にあたり、他の兄弟/姉妹は年上 |
兄弟/姉妹 | ■初代の長男:名前不明 幼い頃に死去 ■初代の長女:時 この人物の娘の婿養子が伊藤忠3代目トップの伊藤竹之助 ■初代の次女:孝 配偶者=伊藤忠三 |
生い立ち/襲名/初期キャリア
15歳で麻布の行商ビジネスをスタートしたのち、
大阪に進出して1872年に「紅忠(のちの伊藤本店)」という呉服商店を開業した
初代・伊藤忠兵衛(近江商人)の次男として1886年(明治19年)に誕生。
なお、もともと忠兵衛という名前であったわけではなく、
伊藤精一が出生名。
1903年(明治36年)、まだ17歳の頃に父である
初代・伊藤忠兵衛を亡くすと、
兄(初代の長男)が幼くして亡くなったという背景がある中で、
次男ながら2代目・忠兵衛を襲名。
翌1904年(18歳になる年)、父が開業した伊藤本店(旧=紅忠)入りし、ビジネスマンとしてのキャリアをスタート。
この年は日本が日露戦争に勝った年で、
終戦後に伊藤本店のビジネスは戦後景気の追い風を受けて発展し、
ビジネスを発展させていく中で若くして、ビジネスセンスを磨いていく。
20代前半を迎えた1908年には東京に進出すると共に
伊藤家の分散していたビジネスを統合して「伊藤忠兵衛本部」を立ち上げ、
その組織のトップに就任。
1918年に営業部門を分割(伊藤忠/丸紅分離の起源)
23歳を迎える1909年春からはアジアを出てイギリス留学に向かい、
ヨークシャーのビジネス系スクールにて欧州の繊維ビジネスなどを学ぶ。
1910年秋に約1年半のイギリス留学を終えて帰国したのち
第一次世界大戦がはじまった1914年、
自らが立ち上げた組織・伊藤忠兵衛本部、
を法人組織「伊藤忠合名会社」へと発展させる。
1916年に30代を迎えたのち、
1918年には伊藤忠合名会社の営業部門を
- 貿易商社の「伊藤忠商事」
- 繊維問屋の「伊藤忠商店(のちの丸紅)」
に分割。
自身は伊藤忠商事の社長となり、
一方でのちに丸紅株式会社へとつながる伊藤忠商店の社長には、
義理の兄にあたる伊藤忠三が就任。
ここが、
- 伊藤忠商事
- 丸紅
という日本を代表する総合商社の分離の起源となる。
また、この1918年にはニューヨーク出張所を開設するなど
海外貿易ビジネスに進出して会社の非繊維ビジネスへとシフトチェンジを
本格化させた年で、今日、伊藤忠/丸紅が
「繊維/呉服商」から「総合商社」へと発展する礎となっており、
伊藤忠/丸紅の会社概要では、
出来る限り会社の歴史を長く見せたい意向もあってか?、
- 創業は「1858年」
- 創業者は「初代・忠兵衛」
という扱いになっているが、
父親の初代・忠兵衛は1918年に起きた
- 伊藤忠商事
- 伊藤忠商店
の分離劇には関わっておらず、
実質的には伊藤忠/丸紅の創業者/創設者/設置者にあたる。
晩年
還暦を前にした1945年にビジネスから引退。
そして、伊藤一族内の女性の婿として迎えられて伊藤竹之助という名前になった
福井県・若狭町エリア出身の逸見竹之助(義理の甥っ子)が後継者に。
長生きしたのち、第一次オイルショックが起きた年にあたる1973年、
越後正一氏が5代目トップを務めていた頃に86歳で死去。
関連人物
初代・伊藤忠兵衛
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