ひよしや

 
参考文献
https://www.hanae-mori.com/history
 


 
1960年代半ばから国際的デザイナーとして活動し、
世界的日本人デザイナーのさきがけとなっていく事になる
森英恵のキャリアの原点となった洋裁店。
 
 
 

「ひよしや」の歴史/概要/場所

 
大正15年(1926年)に島根で生まれた森英恵は
様々な事業によって上京して東京女子大学に通うようになり、
1947年に同校を卒業。
 
翌1948年、のちに彼女のビジネスを陰で支える事になる男性と若くして結婚。
 
そこから、しばらくの間は専業主婦生活をおくっていた。
 
しかし、わずか数カ月でそんな単調な生活に物足りなさを感じるようになってきてしまい、
自分が着る服、家族に着せる服を自分でも作れるようになりたいという事で、
洋裁技術を身に着けるために吉祥寺エリアのドレスメーカー学院という有名専門学校に通い出す。
そして、このドレメに2年ほど通う中で高度な専門技術を身につけた。
 
卒業後、まず学校の友人と共に小さな店を出すが、その事業は準備不作/パートナーの結婚により破綻。
 
負けじと今度は1951年(昭和26年)、
しっかりとした準備をした上で東京の新宿東口エリアの映画館の2階に
「ひよしや」という小さな洋裁店/スタジオをオープン。
 
なお、目立たぬ場所であったため、
店の存在を目立たせるために道路側をガラス張りにし、
マネキンに自身の作品を着せて外からでもよく見えるようにした。
 
新宿とは西口エリアに文化服装学院という有名専門学校が既に存在していたほか
アメリカ進駐軍の軍人の婦人達からの生地調達の需要もあった中、
口コミで新宿店の事が話題になり、軍人の奥様や文化服装学院の若い学生(高田賢三、コシノジュンコ含む)などが通い詰める繁盛店へと成長。
 
1954年には銀座店もオープン。
 
さらに新宿店のそばには夫の経営する喫茶店があり、
映画/演劇関係者などがよく集まっていたが、
その店で小さなファッションショーを行うようになり、
そのショーを通じて森英恵/ひよし屋の存在はますます大きなものとなっていった。
 
そんな中、ある日、日活(映画制作会社)のプロデューサーが
「ひよしや」に来店して同社が製作する映画に出演する
若手女優(北原三枝)の衣装制作の依頼を受けた。
 
ひよしやの業務が忙しかったがオファーを受諾し、
1950年代半ばから映画衣装制作の仕事を開始。
 
その仕事ぶりが高く評価されて映画衣装の関係はどんどん増えていき、
1960年前後の時期に多数の日本映画の衣装制作に関わった。
 
しかし、ひよしや2店舗の経営・家事・育児も抱えていて
過労によるストレスはかなりのものとなっていき、仕事を辞める事まで考えるようになった。
 
そんな中、当時の装苑編集長の進言により、
友人のパリコレモデル・松本弘子と共に1961年初頭パリ旅行へ旅立つ。
 
 
そこで生前のココ・シャネルの店を訪れ、
彼女の部下たちにオートクチュールのシャネルスーツを作ってもらう。
 
その仕事ぶりに発奮して仕事に対する熱意が再燃。。
 
パリから帰ってきて暫くすると今度はNY旅行をし、
現地での日本の扱いの悪さをどうにかするため、
衣装制作の仕事はやめてアメリカで本格的に商業デザイナーとして活動する事を決意。
 
1963年にヴィヴィドを設立してオートクチュール(仕立服/1点もの)の世界から
プレタポルテ系デザイナー(既製服/大量生産)に移行し、
1965年からアメリカでの本格的な活動をスタートさせた。
 
 
 


 
そんな森氏の活動の原点となった洋裁店/スタジオ
「ひよしや」2店舗がいつ閉鎖されたのかという点は
公式的な文献が存在しないため不明ながら
コシノジュンコは森が亡くなった際、
学生時代から「ひよしや」の存在や
森英恵というデザイナーの当時の活動ぶりは
同じく女性である自分にとって希望の存在だったと語っており、
日本の服飾史にとっては欠かす事ができない伝説の洋裁店としてその名を轟かせている。
 
 

 
 
 

 

 

 


 
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