歴代「装苑賞」受賞者の人気/活躍度ランキング
こんな疑問が解決
- 権威ある賞として有名な装苑賞受賞者達を直接比較すると、一体誰が実績ナンバーワンなのか知りたい
ランキングTOP5
第1位:高田賢三(第8回受賞者) | KENZOの創業デザイナーで「花の9期生」の1人。ライバル・コシノジュンコに続いて装苑賞を1960年に受賞。卒業後はパリ短期滞在を経験したコシノジュンコかに様々な話を聞いて思いを募らせ、メーカー在籍中だった1964年秋に松田光弘と共に船でフランスに渡る。松田光弘は予定通り数カ月で帰国した一方で自身はパリに残る決意をし、現地での修行を開始。1970年に自身の店をオープンして1973年にパリコレデビュー。以降、1999年まで26年間に渡ってパリコレのプレタポルテ部門トップデザイナーとして活躍。ショーの規模もパリコレの中でかなり大きなものであった。 |
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第2位:山本耀司(第25回受賞者) | 新宿で洋裁店を営む母を救うため近所にある文化服装学院に通って専門知識を習得しはじめる。そして1969年に第25回の装苑賞を受賞。さらに遠藤賞という賞もダブル受賞。卒業後はパリ滞在を経験。帰国後に自身の会社を立ち上げ、まず国内で活躍。そして、1981年に川久保玲と共にパリコレに参加し、YOHJI YAMAMOTOの創業デザイナーとしてグローバルに活躍。adidasとの協業ブランド「Y-3」も全世界の若者の間で人気。 |
第3位:コシノジュンコ(第7回受賞者) | 大阪で洋裁店を営む母(コシノアヤコ)のもとで、幼少期から自然と様々な高等テクニックを習得した有利な状況で文化服装学院に入学。「花の9期生」の1人で高田健三より半年早く、第7回装苑賞を1960年に受賞。卒業後はライバル・賢三に先駆けて短期のパリ滞在を経験したがすぐに海外挑戦をする事なく、1960年代から1970年代半ばにかけては国内でビジネスを展開。その後、満を持して1978年にパリコレ初参加。そして、賢三引退翌年の2000年まで実に22年に渡ってパリコレのプレタポルテ部門に参加。 |
第4位:やまもと寛斎(第21回受賞者) | 文化服装学院学生ではなかった人物で、上京後に装苑賞ウイナーとして有名だったコシノジュンコの元で働いたりして技術を習得。1967年に第21回装苑賞を受賞。なお、審査会において小池千枝氏などのいる前で、自身の作品を応援する声をあげて場の空気を盛り上げた事も受賞の一因になったと言われている。受賞後は海外放浪を経験し、1970年代初頭にロンドンで日本人初のショーを開催。それをきっかけにデヴィッド・ボウイ、エルトンジョンなどの英国人トップミュージシャンとのコネが出来る。一度の失敗を経て1974年にパリコレ再挑戦をし、1980年代から1990年代初頭までプレタポルテ分野のトップデザイナーとして活躍。1993年にパリコレを引退すると共にイベントプロデューサー/タレントへと転身。2010年代にデザイナー業を復活させるとボウイのファンであるレディガガが寛斎のファンである事が話題となった。 |
第5位:高橋悠介(第83回受賞者) | 「装苑賞受賞者は成功できない」というジンクスが1970年代の受賞以降長く続いてきた中、2000年代に入ってようやくそのジンクスを打ち破った大物。装苑賞受賞後はイッセイミヤケ社に入社し、2010年代に入ると27歳の若さでイッセイミヤケのメンズ部門デザイナーに抜擢される。しばらくイッセイミヤケデザイナーとしてパリコレで活躍したのち独立し、2020年代に入ってCFCLというサステナブル系の新ブランドを設立。そして若手支援プロジェクトの支援を経てパリコレにデビュー。 |
装苑賞受賞歴のない主なトップデザイナー(文化在籍者)
応募していない可能性のある人物も含みます。
- コシノヒロコ・・・・・妹が受賞した一方で自身は受賞歴がない事に対して強いコンプレックスをもつていると言われる
- 金子功・・・・・花の9期生の1人
- 松田光弘・・・・・花の9期生の1人
- 津森千里
- 田山淳朗
- ドン小西
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