マリー・アントワネット(Marie Antoinette)

 
参考文献
https://www.ntv.co.jp/marie/
https://verbara-movie.jp/
 


 

生年

1755年生まれ

没年

1793年

出身

オーストリア

ルイ16世

 
 

生い立ち/結婚/出産

 
1755年に東欧のオーストリア・ウイーンにて、
ハプスブルク家のフランツ1世、
オーストリア大公であるマリア・テレジアの娘として誕生。
つまり、完全な外国人であってフランス人ではない。
 
幼少期を宮殿内で過ごしたのち、
国策もあってフランスの次期国王との縁談がすすめられていき、
14歳の頃に、パリ近郊のヴェルサイユ九電で挙式し、
のちのフランス国王・ルイ16世と結婚。
 
そしてオーストリア東部のウイーンからはだいぶ遠いフランスに移住。
当時のフランスの人々の間でその美しい容姿や髪・肌などが話題になる。
 
1775年には結婚相手が20歳でフランス国王になり、外国出身で未成年であったにもかかわらず、若干19歳でフランスの王妃となった。
 
1778年には第一子が誕生(女の子だったため宮中/庶民からは歓迎されず)。
 
1781年には国民待望の男の子(第二子)が誕生。
さらに1780年代半ばには2人の子供が生まれるが、
1786年に誕生した末娘は生後間もなく死去。
 
 

ファッションリーダーとしてのマリー/浪費による支持率低迷

 
1770年にフランスへ降り立ったマリーはフランスの
発達した服飾文化に魅了されて
宮中で暇を持て余す中で自分を着飾る事にハマっていき、
当時の貴族階級の女性達から憧れられるファッションリーダーに。
 
ただし、自身を着飾るだけでなく国家をゆるがすほどの大金を使って
外装や内装、家具・食器に至るまで宮殿全体を
どんどんドレスアップしていくといった浪費をする中、
次第に国民からの支持率が低迷。
 
 
その後、通称「首飾り事件」により、
庶民たちからの「冷酷/薄情」「浪費家」といった悪いイメージをますます強くなっていく。
 
そして1791年には国王一家襲撃により一家は、タンプル塔に幽閉されてしまった。
 
 
 

残酷な最期

 
その後、夫のルイ16世は日常生活に戻る事なく
フランス革命さなかの1793年1月にギロチンという形で処刑され、
妻のマリーも同年夏に監獄送りとなったのち、
10月に半ばには夫同様のギロチンで処刑され、30代後半という若さで死去。
 
 

日本では評判の良いマリー

 
 
一般的には「当時のフランス国民の嫌われ者」というイメージがあるマリーながら
日本では宝塚歌劇団やヴェルサイユのバラの影響などにより
マリーに対する好意的な意見や報道が多く、
マリーの人生を再考する某テレビ番組においては
マリーが海外からやってきた貿易要人に対して
自らがモデルとなってフランス産の生地やフランス人達の縫製技術の高さをアピールし、フランス服飾産業の発展に一定の貢献をしていたとも伝えられており、本当は歴史的に伝えられているような醜い人物ではなかったのでは、という説も強まりつつある状況。
 
その他、日本の芸能界/一般社会の中には
「自身はマリー・アントワネットの生まれ変わりだ(ではないか)」
と公言して欧州に出向いたテレビ特番まで制作/放送しているホリプロの深田恭子をはじめ、マリーの大ファンが多い。
 
 
 
 
 

 

 
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