フィル・ナイト(Philip H. Knight)
ナイキ社公式サイト内の公開資料
https://about.nike.com/en/company
https://nike.jp/running/iphone/news/post01.html
映画「AIR」公式サイト
https://warnerbros.co.jp/movie/air/
生年月日 | 1938年生まれ |
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国籍 | アメリカ |
2023年時点の役職 | 米ナイキ社の名誉会長(Chairman Emeritus) |
NIKE(旧ブルーリボンスポーツ)を共同創業した人物 | ビル・バウワーマン |
生い立ちから学生時代/日本訪問
1938年生まれのアメリカ人男性ビジネスマン。
もともとは陸上選手だった人物で、
生まれ育ったオレゴン州の「オレゴン大学」において
ビル・バウワーマンという優秀な陸上部のヘッドコーチと出会い、彼から様々な事を学ぶ。
そんなオレゴン大学の陸上部時代に
日本製のランニングシューズのクオリティの高さに感心し、この分野での起業を決意。
オレゴン大学を経て某大学院に進み、
大学院の卒業の時期に差し掛かると大好きな国・日本を旅行する事を決める。
そして1962年に日本を訪れた際、
鬼塚喜八郎氏が立ち上げた日本企業、
オニツカ社(のちのasics)へと売り込み訪問を決行。
まだ会社を立ち上げていない状態の中、
なんとか日本の靴をアメリカで売るべく、
「ブルーリボン・スポーツの代表だ」と、とっさの嘘をつく。
そのハッタリのおかけでオニツカ社幹部から相手にしてもらう事に成功すると
持ち前の圧倒的なプレゼン能力を活かし、
ただの素人学生の身分だったがオニツカ社の靴の輸入販売権を勝ち取ってしまった。
1964年に会社を設立して長く社長として活躍
その後1964年、父から借りたわずかな資金を元手に、
師匠のビル・バウワーマン氏と共に、
本当に「ブルーリボンスポーツ(Blue Ribbon Sports)」という名前の、
もともとは架空の名称だった会社を設立した(のちのNIKE社)。
そのブルーリボンスポーツ社は1960年代、
日本のオニツカ社のシューズの輸入販売事業を主に行ってきた。
(しかしその後、オニツカ社との関係は悪化して同社はブルーリボン社ではない会社との契約を模索している事に気づき、オリジナルシューズの製作に着手)
オニツカ社から実際に契約打ち切りを通達されて一時期経営不振に陥ったが、
今度は日本の日商岩井(のちの双日)という大手商社に売り込みをかけ、
NIKEブランドのスポーツシューズを
日商岩井が日本で扱ってくれる事になり、危機を脱出。
1976年には社名をブルーリボンスポーツからナイキへと改称。
なお1980年代前半の時点ではバスケットボール事業がうまくいっていなかったが、
1980年代半ばには、のちにNBAのスーパースターとなる新人、
マイケル・ジョーダンとの契約に成功し、
ジョーダンの活躍そして高まるNBA人気と共にナイキ社は大きく発展。
漫画「SLAM DUNK」の人気と共に日本でもNBAブームが起き、
NIKEの人気は日本でも1990年代に入ってadidasを凌ぐほどになった。
フィル・ナイト自身は会社HPの公式プロフィールによると、
1983年から1984年までの1年間、
そして1990年から1999年までの10年間を除き、
1968年から長きにわたってナイキの社長(President)を務め、
同社をadidasと並ぶ、そしてかつての契約先であるasicsを上回る世界トップのスポーツブランドへと育て上げた。
2000年代半ばに社長を退任して会長に。
(第1期社長期=1968-1990/第二期=2000-2004)
会長移行後
2006年には、1979年にナイキへ入社して
キーパーソンとして活躍してきたマーク・パーカーが社長に就任。
2016年、ナイト氏は社長を退任してから
会長としてパーカー氏を見守ってきたが、
会長職もパーカーに譲ってリタイアし、パーカー氏はナイキのCEO兼会長に。
2023年時点でナイト氏は
「名誉会長(Chairman Emeritus)」
という一歩引いた肩書きでナイキ社に属している。
2023年4月、ベンアフレックがフィル・ナイト役を演じる
NIKE関連映画「AIR」゛日本でも公開されて話題の人物に。
フィルナイト著「SHOE DOG」
日本でも大ヒット&書評で極めて高く評価されているナイト氏の著書。
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