伊藤忠兵衛(初代)
参考文献
https://www.itochu.co.jp/ja/about/history/tougegoe.html
https://www.itochu.co.jp/ja/about/history/index.html
https://www.marubeni.com/jp/company/history/
https://www.marubeni.com/jp/company/history/yukari/
生まれたのは?(生年) | 1842年 |
---|---|
亡くなったのはいつ?(没年) | 1903年 |
出身地 | 滋賀県 |
主な子孫 | 2代目:伊藤 忠兵衛(次男) |
15歳で伊藤忠/丸紅の起源となるビジネスをスタート
幕末の1842年(天保13年)、
滋賀県犬上郡の豊郷村(近江商人で有名な地)にて
五代目・伊藤長兵衛の次男として誕生。
実家はまさに近江商人の家系で、
「紅長」という屋号にて繊維品小売業を営んでいた。
15歳になった1858年(安政5年)には家業から独立し、
叔父である成宮武兵衛と共に
「持ち下り」と呼ばれた麻布の行商ビジネスを開始。
(この1858年という年は、伊藤忠/丸紅両方の会社概要にて創業年度として扱われている)
この「持ち下り」というビジネスの販路は次第に拡大していき、関東・九州地域にまで進出した。
大阪進出/海外貿易スタート/晩年
そして、明治時代に突入した1872年(明治5年)には、
大阪にて「紅忠(べんちゅう)」という屋号の呉服太物商店を出店し、
絹織物などの販売を開始。
店を開くと天性の商才を活かして
「売り手によし、買い手によし、世間によし」
という、自分だけの利益を追い求めない"3方良し"の革新的ビジネスを展開。
1884年には大阪の「紅忠」を「伊藤本店」へと改称すると共に
「伊藤京店」を新たに開店。
翌1885年には海外貿易ビジネスをスタート。
(これが繊維/呉服業者ではなく商社としての歴史の起源)
1886年には、のちに後継者となる次男・精一(のちに2代目忠兵衛を襲名)が誕生。
1890年、「伊藤糸店」を開店。
(会社沿革によると、この伊藤糸店は今日の伊藤忠商事の根幹)
明治時代後期の1903年、会社沿革によると61歳で死去。
死後の伊藤忠/丸紅
初代・忠兵衛死去の翌年となる1904年、
長男が幼くして亡くなったという背景がある中、
2代目・忠兵衛を襲名した次男(出生名=精一)は「伊藤本店(旧:紅忠)」入り。
後継者となった2代目・忠兵衛は父譲りの商才を活かして
1908年に伊藤家の各事業をまとめて「伊藤忠兵衛本部」を組織し、その組織の代表に。
また同じく1908年には東京に進出。
1909年からイギリス留学を経験し、
ビジネスマンとしてさらに成長した上で帰国すると
1914年に伊藤忠兵衛本部を「伊藤忠合名会社」へと発展させる。
30代になった次男の2代目・忠兵衛は、
1918年に伊藤忠合名会社の営業部門を
- 伊藤忠商事
- 伊藤忠商店(丸紅の源流)
に分割。
この2つの組織は紆余曲折を経て
戦後に日本を代表する総合商社へと発展していった。
丸紅&新生伊藤忠誕生までの複雑な歴史
1918年に2代目・忠兵衛が立ち上げた「伊藤忠商店」は3年後の1921年、
1872年に創業した「伊藤長兵衛商店」と合併し、丸紅商店が誕生。
そして九代目・伊藤長兵衛(1868年生)がその組織の初代社長に。
その丸紅商店は第二次大戦の時期に
岸本商店と共に伊藤忠商事に併合されて「三興」という組織になり、
一旦「丸紅」さらに「伊藤忠」という屋号は消滅。
さらに戦況は激しくなった1944年、
旧伊藤忠商事/丸紅商店/岸本商店から成る「三興」は
呉羽紡績、大同貿易を併合して
「三興(株)」から「大建産業(株)」
へと再度組織名を改称。
1945年に終戦を迎えてから4年後の1949年、
- 新生・伊藤忠商事
- 丸紅株式会社
が新たに誕生。
その後、丸紅は1955年に髙島屋飯田と合併して「丸紅飯田」という組織名になり、
再度「丸紅」という称号を失うが、
1972年に新生「丸紅株式会社」が誕生(社名変更)し、現在に至る。
関連人物
2代目・伊藤忠兵衛
服飾/美容系業界人メニュー
[各分野の業界人]
[社長/経営者系]
サイト内検索窓↓
(飛びたいページに即飛べます)
業界人必読(無料サンプル号あり)
Fujisan.co.jp:WWD JAPAN
digital-zasshi.jpトップページに戻る