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山本寛斎(やまもと・かんさい)

 
 

苦悩の少年時代から1992年までのパリコレデザイナー時代

 
1944年2月生まれ。
親の離婚により、幼少期は幾つかの地方を転々とする苦悩の少年時代を過ごした
 
その後、実の父と暮らすようになり、
岐阜県内の岐阜工業高校・土木科に進学。
一方、父が紳士服の下て職人で家で色々と手伝いをしてきた中で
培ってきた技術を活かし、学校で応援団の衣装をデザインするなど、この頃からわずかに服飾デザインを経験していた。
 
なお、もともとは当時のモテる職業であった建築・設計の仕事を目指していたが、
例えばダムの仕事は責任が重大すぎるといった事から、その道は断念。
高校を卒業すると上京して、日本大学(日大)の文理学部に進学。
 
進学して東京の大学に通う中、ある日、コシノジュンコ氏に出会う。
その直後、家まで押しかけて弟子入りを志願。
未成年である事を理由に一度断られたが、なんとか弟子入りする事に成功し、
しばらく、コシノジュンコのアトリエにて技術を磨く。
 
そんな中、師匠のコシノジュンコが受賞したこともある
新人デザイナー向けの大型賞「装苑賞」に作品を応募したところ、
選考会にて高い評価を受け、1967年に同賞を受賞し、一躍注目を浴びた。
 
それを機にファッションデザイナーとして本格的なスタートを切り、
海外での活動機会も増えていく。
なお、25歳の頃にはロンドン滞在中に某有名カメラマンに
撮影された写真がきっかけとなり、「LIFE」という雑誌の企画で
"世界のかっこいい10人"の一人に選ばれ、
寛斎の目はさらに海外へと注がれるようになった。
 
 
 

1971年のロンドンデビューからから1992年まで

 
 
1971年には英国のロンドンにて日本人デザイナーとして初めて
大きなファッションショーを開催し、それを大成功させる。
それを機にデヴィッド・ボウイ、エルトン・ジョンなどとの交流が生まれていった。
 
その勢いでパリでのショーを開催したが、
酷評を受けたほか大きな借金を抱えて大きな挫折を経験。
 
 
しかし、娘の山本未来氏が誕生する1974年には環境を整えてパリコレに復帰
そこからは三宅一生氏・高田賢三氏・コシノジュンコ氏などとと共に
世界的に高い評価を受けるデザイナーに成長し、
KANSAI YAMAMOTOブランドは世界的なものになった。
一方、衣装デザイン分野でもデヴィッド・ボウイとの仕事にて大活躍。
 
その他、ニューヨークや東京でもショーを開催。
世界各地にブティックもオープンさせる。
 
しかし、もっと色々な事に挑戦してみたい気持ちが強くなっていき、
1992年にパリコレから撤退して、イベントプロデューサーに転身する事に。
 
 
 
 

1993年からのキャリア

 
1993年にイベントプロデューサーに就任してからは、
世界各地にてファッションだけでなく様々な要素をもつ
大規模なイベント「KANSAI SUPER SHOW」を開催し、それぞれを大成功させた。
 
特に1993年に開催された
ロシア・モスクワの「赤の広場」で行われたショーなどが有名。
 
また1990年代後半からは日本においてタレントとしても活動し始める。
 
2000年代は国内でのプロデューサー・タレント業が中心となったが、2010年代に入ると再び世界各地で活躍するようになる。
 
 
 

2020年に死去

 
 
晩年まで幅広く活動し、
ファッションデザイナーとしての活動も再開させていたが、
2020年に惜しくも死去。
 
それを受け、たくさんの世界的デザイナー・業界関係者が追悼のコメントを寄せた。
 
 
 

異母兄弟・伊勢谷友介氏との関係

 
寛斎氏の父親は相当な女性好き&暴力的な人間で、
テーラーとしての腕前には定評があったが、
家の中では家族への暴力が絶える事はなく、
新しい女性が出来る毎に離婚と結婚を繰り返し、
女・子供を苦しめる存在であった。
 
晩年に結婚した女性との間に生まれた子供が、
寛斎氏とは30歳以上年が離れた伊勢谷友介氏。
 
 
 

 
 

 


 
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